人間の懐の深さ

先日硫黄島での慰霊式のニュース記事をどこかのサイトで目にした。

その記事は慰霊式自体ではなく、その慰霊式参列をきっかけにある一人の元米兵が65年ぶりに硫黄島を訪れた、ということが内容の中心であった。

まずその記事の中で驚いたのは、

なんと彼の息子が結婚を望んだ相手は、硫黄島で戦った旧日本軍パイロットが父親という女性だというのだ。

なんという巡り合わせだろうか。
戦争などまったく知らない僕でも、この運命のいたずらがとんでもないことは多少想像がつく。
お互い殺したいと思って戦った者同士が、まさか親として出会いそして親戚になることになるなど、想像していたはずもない。
国同士・政府同士は国交を回復していて、戦争時のわだかまりは過去のものとなっていても、戦地で実際に対峙しながら戦っていた人たちにとっては、その戦闘意識を持つために抱えた殺意や憎しみはそう簡単に消えるものではないはずだ。
僕らの日常生活でさえ、一度嫌いになった人との和解や、一度喧嘩してしまった人との和解は、そう簡単なものではないのだから、その数十倍も数百倍も、精神的苦悩と勇気を要するに違いない。

しかし、娘の父親であるその旧日本兵パイロットは元米兵にこう言ったという

『日本軍と戦ってP51を飛ばし、生き延びた男なら、勇敢な男に違いない。自分の孫に、その男の血が流れることを望みたい』

僕は本当に正直に心を打たれてしまった。

なんという懐の深さだろう、と。

両親とも結婚を当初反対していたというから、その旧日本兵の方も反対してのだと思う。
でも最終的にその気持ちに行き着いて、その言葉を相手に伝えた。
凄い勇気だと思った。

そして、きっと二人の間に生まれる子どもは、勇敢な二人の血が流れる素晴らしい人になるだろうと、想像がつく。

まさにその通りになっている。

この65年ぶりの彼の硫黄島来訪は、その孫の希望だったというのだ。


伝統と革新 時代と立場

朝青龍の引退で幕を閉じた一連のどたばた

朝青龍への個人的な思いは色々あるけど、忘れないうちにその周辺から感じたことをつらつらとメモとして残しておく

まず、やはり伝統と革新は成熟した世界の大きな課題だ、と改めて実感。
時代に逆らってでも守る伝統 時代に応じて変える変革
柔道界のカラー柔道着
京都料亭のミシュランへの掲載
それぞれが重きを置いているところが、外から見れば重きを置くところではない、という
内外の価値観の隔たりが生む摩擦と葛藤
やはり内側からの迅速な判断と決断が必要

内外の価値観の隔たりが生む摩擦で言えば、
グーグルと中国 や アメリカと中東 も似ている。
要するに片方が片方に価値観を押し付けることから生まれている。
押し付けられる側は、早い段階で押し返すか受け入れるか決めねばならない

そして、時代とともに変わる外部からの認識と変わる立場の難しさ、も感じた

ただのプロレス的興行であった相撲が国技となり、
一方ではスポーツとして見られ、一方では伝統芸能として見られる
芸能なのに八百長や演出を否定され、スポーツ的公平性を重んじることを求められる。
スポーツなのに勝ち負けよりも様式を求められる
相反する二つの間で迷走する方向性 
興行とはもはや言わせてもらえない立場と責任
時代の流れに対して自らの役割を見出し変化しながらもぶれない軸が必要だ

それにしても朝青龍は好きだったから本当に残念だ

朝青龍と白鳳の対称的な横綱の組合せは絶妙だった

これで殴った事実がもし無かったら、追い込んだメディアは責任をとってくれるのだろうか








マスメディアとグローバルメディア / no.d+a

最近テレビでよくGoogleと中国の問題が取り上げられている。

先日もあるテレビ局が特集を組んでいた。

その中で、中国の有名アーティストが、自分のブログが政府を批判したために削除された、という経験者として取材を受けていた。

中国の検閲は、確かに民主主義の立場から見ればやり過ぎと感じるし、その論点の報道を日本のメディアがすることには何もおかしな点は無い様に思う。


しかし、違和感があったのは、そのアーティストが、肩書が建築デザイナーとなっていて、しかも名前を日本語の漢字の音読みになっていたこと。

音読みは確かに日本人には分かりやすいが、本人にとって実際その読み方で呼ばれることは無いはず。こちらが音読みで呼びかけても彼は振り向かないだろう。はっきり言ってそれはもはや名前では無い。

肩書にしても、もしかしたら本人がその様に望んだのかもしれないが、世界的に見ればやはり彼はアーティストなはずで、実際の認識とは食い違う。


つまり、こんな風にメディア統制している報道を本当に信用して良いのだろうか、とその点に疑問を感じたわけだ。


メディア統制しながら、中国の検閲を批判する報道。

まことに矛盾だし、しかしこれが現実でもある。


新聞やテレビなどのマスメディアは、あくまで自国にとって必要な内外の情報を、自国の利益に沿う内容に編集・解釈して、伝える。

かつてはそれで良かったし、社会からもそれが求められていた。今でもその役割が必要な局面はまだまだある。

しかし、本当の情報、事実、一つの事象への様々な見方、などグローバルな情報がメディアに求められている現代。マスメディアの状況はそれと少しズレている様に思う。


そういう意味で、そういった需要に対して応えようとしているGoogleなどが伸びているのは納得がいくわけで、そんなGoogleを一般向けに報道しているつもりの、フィルターをかけたマスメディアは、なんだか本末転倒で、滑稽にさえうつる。


もちろん全ての情報には必ずなんらかのフィルターがかかっている。しかしそのかけ方は、かける側、つまりメディアが、時代や社会に応じて柔軟に変化させなければならない。

肩書だの読み方だのに未だにフィルターをかけるメディアがGoogleを正確に伝えることなどできないのだ。


そう言えば以前僕がこの局に取材された際、建築デザイナーは分かりにくいからダメなんです、建築家でお願いします、と言われて渋々飲んだことがあった。でもこのアーティストの肩書きは建築デザイナーになっていた。


所詮そんなもんなのだ。

IT革命→ITによる革命

グーグルが中国と対等に渡り合っている。

これまでいくらアメリカはじめ諸外国が外から言っても変わりそうになかった中国の検閲体質が、もしこれで変わるようなことがあったら、それはとてつもなく凄いことだ。
つまりグーグルの力が各国の力を、一部の分野とは言え、越えることになる。

これこそが本当のITによる革命なのではないかと感じる。

印刷技術→宗教革命
蒸気技術→産業革命

のように、ある技術の発達や発明は、思わぬところに革命をもたらす。

今回の件やスマートグリッドへの参入などを見ると、「世界の知の再構築」を掲げるグーグルの「世界制覇」という野望が本気なのだと改めて実感した。

2010年年明け早々からのこの一連の出来事は、何か大きく変わる予兆のように思われる。

自転車は、車道が原則、歩道は例外 / no.d+a

運転免許証の更新に行ってきた
自分がこの時期に生まれたのだから仕様が無いのだが、冬の寒い中交通の便が悪いところまでバイクで行くのはなかなか堪える。

さて、講習会で配布される資料の中に、自転車に関する欄がかなり最初の方にあった。
どうやら最近改正されたらしい。
<自転車安全利用五則>
1.自転車は、車道が原則、歩道は例外
2.車道は左側を運行
3.歩道は歩行者優先で、車道寄りを徐行
4.安全ルールを守る
  飲酒運転・二人乗り・並進の禁止
  夜間はライトを点灯
  交差点での信号遵守と一時停止・安全確認
5.子どもはヘルメットを着用
おそらく、最後のサブカルチャーとも言われている自転車ブームの影響で、法が改正され、講習会でも強く呼びかけるようになったのだろう。

ちょっとドキッとする項目もあるが、基本的には1と2以外は誰から見ても当たり前のことだろう。
しかし、1と2の様に、自転車が車道を走ることを法的にここまでしっかり規定しているとは思わなかった。

一昨年東京に行った際にバスの中の車内放送で、「自転車は車道を走りましょう。車の方は自転車の走行にご理解とご注意をお願いします」みたいなことを言っていたのを聞いて、いよいよ自転車車道通行が日本でも一般的になってきたか、と感じたが、実はマナー程度ではなく法的に整備されていたのだ。

しかし、なかなか自転車利用者の人にこのことが浸透するのは難しいだろう。
どうしても歩道を走る癖がついている。
自分は昨年クロスバイク型の自転車を購入したことで、車道を走る必要性を実感として感じるようになったものの、ママチャリやチビチャリはじめ普通の自転車の人にとってはおそらく車道は怖くて走れないのが本音だ。

たださっきも言ったが、軽くて速い自転車の人にとっては、むしろ歩道の方が怖い。
車は絶対に急に横移動することは無いが、人は不意にいきなり横移動する。まっすく歩いているつもりでも、実はふらふらと歩いている(これを建築業界ではスラローム歩行という)。
なので、そういうタイプの自転車の人には、車道を走りましょう、の傾向は歓迎なのだ。

とは言え、一方で、車の運転者にとっても、大変うっとうしいはずだ。
原付やバイクでもうっとうしいだろうに、更に遅くて無防備な自転車が車道の端を走るのは、もっと邪魔な上にドキドキすると思う。
歩道の中での人と自転車との関係が、まさに車道においては自転車と車との関係になるわけだ。縁石(歩道と車道の間を仕切っている石の舗装)を境に、自転車は強者から弱者に一変する。

いずれにしろ、新しいマナーが習慣化するには相当な時間がかかる。
法的な正しさと習慣的な正しさが一致するのは簡単ではない。
やはりしばらくはまだまだ、自転車は歩道を走るものだ、という認識が一般的だろうし、
それが変わるまでは、速い自転車の人達はその板挟みの中で耐えないといけない。要するにしばらく悪者扱いだ。

そして、仮にいつか全ての自転車が車道を走るようになっても、そこからまた新たな問題も出てくる。
車と自転車の接触事故が増えたり、かつての中国の様に車道を自転車が占拠して交通渋滞が起こるかもしれない。
そうなると、ヨーロッパの様に自転車専用道の整備が求められるだろう。
その時、車道を削るのか歩道を削るのか、みたいなせめぎ合いもあるだろうし、新たに街などの再開発で区画整理する際は自転車道を考慮しないといけなくなる。

格好いい自転車が生まれたことから、
ファッションとして広がり、法整備にも影響を与え、人の習慣を変え、都市計画にも影響する。


些細な一つのアクションがどれだけ波及効果を持っているかは計り知れないのだ。