人のこころ 

白鵬の連勝記録が期待された九州場所だったが、あっけなく2日目に負けてしまい、たいへん残念だった。果たしてもう一度双葉山の記録が破られる瞬間に立ち会えるチャンスはあるだろうか。

負けた白鵬は
「途中で勝ちに行ってしまって負けた。心と身体がバラバラになる気がして休場も考えた」
と漏らしていた。

あれほど冷静沈着な取り口と振る舞いの白鵬からは想像のつかないことだが、双葉山や大鵬でさえその場所に優勝できなかったことを考えると、それでも気持ちのコントロールに長けた横綱なのだと改めて思った。

人のこころとは本当に無常なものだ

最初はこれで充分と思っていたことでも、ちょっとした状況や心境の変化で、その認識は大きく変わる。

平和でさえあればいい
そう思っていても、もっと豊かに、もっと安全に、もっと健康的に、となる。

仕事があるだけでも充分 職につけただけでも充分
そう思っていたはずが、こんな仕事はしたくない もっと割のいい仕事がしたい こんな職場は嫌だ こんな上司は困る もっと待遇を良くして欲しい
となってしまう

彼とは一生の親友だ
と言っていた関係が急にぎくしゃくすることだってあるし、
あんな奴死んでも友達にはなれない
と思っていた相手がふとしたことで親友になったりする。

昨日までは安定していた心がある日突然なんとなく不安定になる

そんな風に人のこころは移り変わっていき、そういう小さな変化が他人へ影響を与え、
最終的に社会の空気や世論を作り出したりさえしている。

初心忘れるべからず

誰しもこの言葉の重要性はよく分かっているはずだが、
心が安定していたり、心に余裕がある時にこの言葉を思い出すのはたやすい。

しかし、この言葉を忘れるような状況の時こそ真価が求められる。

どうやって常に平静で冷静な自分を維持できるか
どうすれば信念や判断の軸がぶれないでいられるか

古今東西問わず、人間の永遠の課題であり、醍醐味でもあるのだ。




iTunes BEATLES 映像

iTunes で BEATLESの Live at Washington Coliseum ,1964 が無料で視聴できると知って、お昼がてら見てみた。

あまりビートルズは詳しくなく、映画を見たりしたことがあるぐらいで、CDも持っていないぐらいなので、まさに興味本位のミーハー根性でしかなかった。
しかし、見てみてびっくりしたのは、その当時の熱狂ぶりだ。アメリカ初来日公演ということもあったが、嘘じゃないかと思うほどのオーディエンスの発狂さだ。狂い死にそうな人がいる。

何が当時ここまで人を動かしたのだろう。

もちろんビートルズの音楽自身や彼らのスタイルの新しさがあったのは言うまでもない。
だが、一方でその登場のタイミングと時代を考えずには要られなかった。
ジャズのバップやプレスリーによるロックなど、先人たちが伏線となった音楽の文脈もあるが、何よりその当時人々がそれを求めたという時代性、社会の状況、国や政治の状況も大きく影響している。
当たり前のことだが、改めてそれを実感させられた。

ビートルズがそれをビジネス戦略的な感覚で情報として得て行動に移したなんてことあるはずはないが、何らか時代や社会の空気を感じとったところはあったと思う。それを音楽として表現したわけで、それはまさにアーティストと言える。むしろビジネス戦略では出来ない飛躍をその感性によってなし得たとも言える。

自分が日々無意識に感じていること当たり前だと思っていること。困難ではあるが、それを知ることが重要な何かを知ることになる。

Appleの40分にもなる映像を無料配信するというビッグサービスのおかげで、色々考えさせられた。
僕のような中途半端に興味がある人には効果的な宣伝だろう。僕でも少しは欲しくなったぐらいだから。









from I-phone

尖閣諸島の映像流出と世論の関係

尖閣諸島での漁船衝突事件の映像が流出した事件。
すっかりメディアの報道の中心は、その保安官をどうするか、といったところに移ってしまい、
もはやニュースにもならなくなってきた。
しかし、ここでこの件を止めてはならないと思う。

流出させた保安官も、映像を国民に公開せよと叫んでいた政治家も、
「世論が見たいと言っている」
を根拠にして、発言していた。

しかし、本当に果たして皆が見たいと思っていただろうか、と思うのだ。

もちろん「興味本位」で見たかった人はたくさんいるだろう。
それは、ニュースになっている有名な事件のその瞬間を見たい、という
「衝撃の瞬間!!」や「警察24時!!」的な番組を見たい気持ちと変わらないのではないか。

しかし、政治家や保安官が言っていた、「国民に見せるべき」という思いは、
「民主主義の国として国民に情報を公開し、国民が共有した上で、国全体で議論すべき」
というところにあるのではないかと思う。
政治家はどうか分からないが、保安官は少なくともそういう思いがあったのではないか。

しかし現実は、かなり無責任に街頭で応える「世論調査」というものがその根拠になっていて、
本当にその人が、国民としてそれを見た上で議論したいから見たい、と言っていたどうかは分からない。
いや、はっきり言って「国民として見ておかなければならない」「そしてそれを見たことに俺は責任をもって議論する」という気持ちで調査に応えた人はたぶんほぼ皆無で、
ただただ「見てみたい」でしか無かったのではないかと思う。

そんな、「いや、俺は別に見たいとは言っていないよ。でもみんなは見たいんじゃない?」
的な誰も責任をとらない状況で生まれた調査結果と空気が、保安官の気持ちを動かし、
映像流出へと働いたのであれば、これはかなりまずい状況だと思う。

何度も何度も繰り返し反省させられる戦争もたぶん、「いや、俺は責任をもって、戦争した方がいいとは思ってなかったんだけど、みんながさあ、」という人達がほとんどで、でもそんな人たちがつくった「世論」がなんとなく戦争賛成に動き、それをメディアが煽り、政治家と軍が勘違いして、と動いていったんじゃないかと思うことがある。

実際、煽ったメディアはもう取り上げてさえないし、ましてや映像を見た上で議論がさらに深まったとも思えない。国民も全然そんな議論していないし、むしろ、「へえ、こんな感じだったんだ」「映像見たし、気は済んだ」みたいなことになっていて、まったくもってどっかのテレビ番組の決定的瞬間を見たあとの家の中の空気と変わらない気がする。

このメディアと世論調査、なんとかならないものだろうか。

民主主義が浸透していて、個々が自分がその発言に責任をとる、という上での調査と、
なんとなく民主主義の国にいる人達がその時の気持ちで発言している調査。
これは雲泥の差であり、後者はまさに大衆調査だ。

そんな大衆による世論が、政治や外交、ましてや守秘義務にさえ影響を与えていることこそ、
大きな問題ではあり、ジャーナリズムが取り上げるべきことなのではないだろうか。
ここが変わらなければ、また戦争になったっておかしくないと思うのだ。

マスメディアの真意と真価って

中国との尖閣諸島問題を各メディアがこぞって取り上げている。

流れてくるメディアの情報だけを見て聞いていれば、
「中国が無人島への領有権を100年たって急に主張してきた。
 東アジアおよび世界への玄関、そして海底にねむる石油をにらんでの、
 私利私欲的行動。日本のみならず東南アジアの国々にとっても脅威。
 アメリカも危機感を抱いている。」
といった、かなり一方的な中国批判の報道だ。
これを聞いていると、こっちも嫌でも煽られて、
「まったく中国という国はなんて国だ」
「理解に苦しむ国だ」
という気持ちになってくる。

しかし、本当に報道されている内容が正しいのかどうか。
いや、報道から受ける「印象」が正しいのかどうか。

そこがすごく重要だ。

ささやかながらでも取材を受けたことのある身の経験から言えば、
メディアというのは、かなり独自の台本に基づいた報道をする傾向がある。
既に自分の中でストーリーをつくってから現場にやってくる。
はっきり言ってドキュメント映画と変わらない。
ディレクターはあたかも監督のようにシナリオを書いて取材し編集し報道する。

例えば今回の問題も、各社ほとんど同じ様な内容で、煽るような報道だ。

全てが同じ、というのはどうにも気持ちが悪くはないか。

8割同じで2割違う なら その8割や2割には信憑性があるが、
10割同じというのは、どうにも信用がならない。
ほんとに現場に行って、しかもそもそも現場に数年間滞在して、
そこまでの国の経緯や空気感などを知った上での、その上での報道だろうか。

中国と日本を頻繁に行ったり来たりしている商社の知人がいるが、
いつも彼から聞く中国の話は、まったくメディアから感じるものとは違う。
少なくとも「よく分からない国」という印象はない。
いいも悪いもはっきりとした方向性があってビジネスも政治もしている国
といった印象で、そういう意味ではアメリカなどと変わらない。
むしろ日本の方がビジネスも政治も方向性がはっきりせず、「よく分からない国」ではないか。

マスメディアがイデオロギーを持っているのは悪いものではないし、むしろそうあってしかるべきだろう。
しかし今のマスメディアははっきりとしたイデオロギーがあるわけではない。
冷戦構造が崩壊して、主義らしい主義は無くなった。
あるとしたら視聴率主義だろうか。そして大衆煽動主義だろうか。
要するにマスメディアこそが「よく分からない」時代なのだから、
そこが報道する情報ははっきり言って「嘘半分」で聞かなければいけないわけだ。
だってどの局も同じ報道ってそれは絶対におかしいのだから。

今は僕らメディアから情報を受け取る側がある意味試されている時代と言っても過言ではない。

高い意識が必要だ。

これは、用心していてもかなり影響を受けるのだから、かなり難しいことだ。

それは中国国民だってそうだ。
おそらく中国国民や北朝鮮国民を見て、「国の言うことばっかり信じてるなんてなんて馬鹿な」
と思っている日本人は少なからずいないだろうか。
でも彼らが僕らの環境と実はさほど変わらないとしたらどうだろうか。
向こうも自国のメディアの情報を頼りにしているし、それで判断している。
そして「なんて日本は勝手な国で、全然戦争から懲りて無いじゃないか」
と思っている可能性は無いだろうか。
例えば日本で少数派が反中デモを行い、あたかも中国メディアがそれを全日本国民の総意のように
報道したら中国人はどう思うか。
もしかしたら日本のメディアが取り上げる反日デモがごく少数の人の行動なのかもしれないのだ。

結局両国ともメディアなどに大きく影響を受けて判断していて、
実際に自分が行って確かめたものでもなければ、実感からくるものでもない。
なのにこういった重要なことに限ってメディアの影響を受ける。
というかこういう次元のことはどうしてもメディアを頼らざるを得ないからはっきり言って仕方無い。

だからこそ、メディアはもっと多角的な報道をしてほしい。
そして、たいしたイデオロギーが無いなら、ただただ正確に情報を流して欲しい。
ある一部の人の意見やある一部の現象、ある発言の一部だけをを使うような、
そういった、情報に誤りはないが「勘違い」させる、報道は避けて欲しいと切に願う。

僕はまだ中国本土に行ったことはない。
だから今回の現実はよく見えていない。

でも自分が確かめるまでは、マスメディアの報道を鵜呑みにはしたくない。
あくまでも一つの側面であるとして見ておきたい。

そう肝に銘じる。



サラリーマンの歴史化=産業構造の形骸化

先日仕事で姫路に行く機会があり、かつての商家が立ち並ぶエリアを、そこで育った年配の方に案内してもらいながら歩いた。
かなり寂れてはいるものの、商家が立ち並ぶ通りには風情があり、そこでかつては活発な経済活動が行なわれていたことがうかがえた。
その方は、「かつては親がサラリーマンなんて家の方が珍しくて、皆家で親が商売している友達がほとんどだった」と言っておられた。

6月日経新聞の裏面「私の履歴書」ではオービックの社長の話が連載されていた。

オービックの社長に限らず、この欄で連載される方々は皆70〜80歳代の方ばかり。
皆さんの連載初回のころの話には、どうやって生きていくかを考える少年、の描写が必ずと言って良いほど出てくる。
「私は次男だったので、家業は継ぐことができない。なんとか自分で食べる方法を考えないと行けなかった」や「他の家の子供たちと同様、丁稚奉公(でっちぼうこう)に出た」と言ったたぐいの話だ。

そこには、「大企業へ就職するために就職活動に励んだ」とか「面接の際に少しでも好印象を持ってもらえるよう、リクルートの手引きを読み込んだ」、と言った描写は無い。

僕は別にここでサラリーマンを否定しようとしているわけではない。

言いたいことは、サラリーマンの歴史は浅い、ということだ。

こんなこと、年配の人にとっては当たり前の話かもしれない。
しかし、僕らの若い世代にとっては、そんなことはない。
むしろ「サラリーマン」は当たり前の様に目の前にあった、たいへん丈夫そうな既成概念だった。

そういう意味では逆に、サラリーマンに歴史が生まれ始めた、と言えるかもしれない。

皆周囲の友達のお父さんはサラリーマンだったし、
ドラマの設定もサラリーマン一家ばっかりだったし。
つまり、周囲の大人のほとんどはサラリーマンだったわけだ。
そしたら皆がサラリーマンになるという将来を考えるのは当たり前だ。
人は目の前で見たことのある道を進みたいと願うものだ。
(この点においては、家業があったから家業を継ぐ、というのも変わらない。)
だからそういう意味では、「ケーキ屋さん」とか「花屋さん」とか「スポーツ選手」とかっていうのは、まさに作文だから書く「夢」であり、鼻っから「現実にはならないもの」と思っていたのではないかと思う。
現実的には、見たことのある「サラリーマン」だったはずだ。
そしてこの「サラリーマン」という言葉には、年功序列と終身雇用、という意味も含まれ、「安定した人生」に直結する言葉だった。

しかし、今よく見てみると、そんな安定したサラリーマン生活を送れたのは、第一世代だけだったということに気づかないだろうか。
その世代はつまり今の60〜70歳代。
そして実はその初代サラリーマン組を雇い始めたのは、「家に家業があった時代に生まれ育った」世代ということにも気づく。
要するに70〜80歳代の「私の履歴書」世代なのだ。

つまり何が言いたいかというと、
この当たり前の様に言われる「サラリーマン人生」はたかだか今の60〜80歳代の人達の時代のごく短い年齢層の人限定の話、ということではないかと。

なのに今でも「サラリーマン」になるしかないと考える人達がいて、それに漏れた人達が「失業者」と呼ばれ、本人さえそれを「負け」と認識して自覚してしまっている。

サラリーマンになれるかなれないか、なんて、たいした話ではないないはずなのに。
しかもその全盛期はとうの昔に終っているのに。

かつてサラリーマンが少なかった頃に、「毎月定額の収入があるなんて、信じられない」と商家の人たちは言っていたそうだ。

よくよく考えればそりゃそうだ。
会社の収入は毎月一定ではないのに、本来なら社員に一定の給与を与えることはできないはず。
しかも丁稚奉公なんてもんではなくて、中産階級の生活が営めるぐらい出すなんて。
そういう意味でサラリーマンという立場は、もの凄くまれで、もの凄く恵まれた、立場であったはずなのだ。
まさに産業革命の功績そのものだった。

それをもう一度よく理解するべきだと僕は思う。

そして、そんなラッキーな立場に立てなかったからと言って人生が終ったわけではないし、むしろ人を雇って「サラリーマン」を増やす側に立てる可能性があるわけだし、サラリーマンでも雇い主でもない「ケーキ屋さん」や「お花屋さん」といった作文の「夢」にだってなれる可能性があるのだ。

逆に、「サラリーマン」という概念が当たり前であることがおかしな話で、
それこそが産業構造の形骸化を生んでいるのではないかと思う。

ある人が会社を立ち上げようと立ち上がる。
そこに、「では私もついていきます」、とついてくる人たちがいる。
かつての「サラリーマン」はそんな起業者と同じぐらいの勇気が必要だったのだ。
でも今そんな勇気はいらず、それどころか勇気なき人たちが大半になってしまった。
俺は安定したいから大企業に雇われたい、と。
そんな意識の低い人を欲しい企業なんで無いのに、応募してくる来る人はそんな人ばかり。
まさに商家が当たり前になって二代目がうまくいかなくなったように、二代目以降のサラリーマンもやはりうまくいかないようになるということだろう。

つまりは、歴史の形成は様式化の形成。
サラリーマンの歴史が形成されることは、その産業構造が形骸化されることと同義ということだ。

そんなことを、日経新聞の記事に「先進国の中で起業家精神を持つ人の割合が最低レベル」という記事を見て思った。


いずれにしろ。
今大勢の人が当たり前だと思っている社会。
それをちゃんともう一度理解し直すことが重要なのではないかと思う。

その時、「私の履歴書」のような記事が多いに役立ち、そこにメディアの役割の一旦があるのではないだろうか。

ちなみに僕を案内して下さったその人は
「だからみんな家に帰ると親がいて、家の家業を手伝わされたものです」
とも言っておられた。
つまり鍵っ子なんてなかったし、両親が働いていはいても、いつもすぐそばにいたのだ。

僕も商家ではないが、家業のようなものがある家だった。

だからいつでもそばに母と父がいた。

そのありがたさは何にも変えがたい。

そして僕は今サラリーマンにはなっていないのだ。
これも所詮は「負け」おしみだろうけど。