情報を受け取る側として / no.d+a

事実って何なのだろう

「やらせ」メール問題や、
それを批判しているくせにそもそも世の中のことを正確に伝えてくれないマスメディアを見ていると、
「どうして正確な情報、事実を伝えてくれないのだ」と思うし、そう思っている人は多いと思う

しかし、正確な情報、事実、っていったい何なのだろうか

それが「やらせ」であることを知らなければ、そのメールはその時点ではそれを見た人にとってはそれが事実だったはずだし、何ら疑問を持たなかったのだろうと思う

例えば、ある百貨店の売上が前年比130%という記事があったとして、
それが実は実態と違ってむしろ前年比80%だということをその業界の人から聞くまでは、
130%が記事を読んだ側としては事実であり続ける
例えば、ある新聞の連載に書かれている人の生い立ちがあったとして、
それが実は実際の生い立ちとは違うということを知るまでは、
その書かれている生い立ちが読者にとっては事実となる
しかもこの場合は本人が書いているのだから、疑って読み始めたら読んでられない

じゃあどうすれば事実か事実でないかを知ることができるのか

それはもはや自分で確かめる以外に方法がないわけだが、
それははっきり言って不可能だ。
新聞やテレビの全ての情報の裏をとるなど出来るはずが無い
それに上記のように本人が間違っていた場合など、事実を知るのは至難の業で、警察ばりの捜査がいる

となると、
まあテレビと新聞の記事は半分は怪しい、
と日頃から疑ってかかっておくぐらいしかできないわけだが、

ただ、そもそも正確な情報、事実を知る必要があるのか、と言えるとも思うのだ

先日ある新聞の記事に、医学的にはその人の寿命をある程度迄測ることができる段階にきている、という内容の記事が掲載されていた。DNAのある部分の長さがその人の寿命に比例していることが分かったのだそうだ。
(ちなみに寿命を伸ばすためのDNAも発見されていて、そのDNAのスイッチをオンにするサプリメントをアメリカで販売したら、人が殺到したそうだ)

でもはたして寿命を知る必要はあるだろうか

寿命が分からないから人は日々コツコツと生きていけるのではないかと思う

例えば(これは本当に例えばの話だが)、生まれた段階でDNAを調べればその人の寿命だけでなく、特性、体質、能力、などまで分かってしまうとすると、おそらくかなりの割合の人が希望を失うと思う。ごくごくほんのわずかな特殊能力をもった人のみが希望を持てるかもしれないが、それはそれでプレッシャーだろうし、何をやってもできて当たり前に扱われ、その上結果まで見えているわけだから、取り組みがいがなくなってしまい、やはりつらい

民主主義の社会では、民主は全ての事実を知り、共有しておくべきだ、という考え方が一般的だが、
いくら自分の社会や自分に関することでも、「未来」に関することのように、自分に大きく関わる情報といえど知る必要があるとはっきり言えない事実もあると思う

もちろん人によっては知りたいと思う人も居ることだろう
そしてそれを知るかどうかの選択の権利があることが民主主義社会としては重要だと思うが、
全ての人が本当に冷静に選択の判断ができるかどうかは正直怪しいのではないかと思う
「寿命」など知りたくもないと思いながらも、気になって気になって仕方無く、結局聞いてしまう人が多いのではないか
その時、「あと〜年」ですと言われ、それが思っていたよりも全然短かった時、どうするのか

原発の情報にしても、もしも(これも本当にもしもだが)、実は世界中がもう取り返しのつかないほど汚染されているという事実があった時、それを聞いた人々は冷静に行動できるだろうか

先述の百貨店売上の話にいたっては、景気は「気」なのだから、80%の事実を聞かない方が、社会や経済にとっては良いかもしれない

要するに情報は、受け取る側の覚悟や教養もかなり求められるわけで、
それを前提に、メディアの情報を疑い、自ら確認し、受取り、理解し、責任をもって判断しなければならない
けして、発信側を追求し責めるばかりではいけないと思うのだ

そういう意味では、本当に「やらせ」があったのかどうか、本当に寿命が分かるのかどうか、確認していないのだから事実でないとも言えるし、記事を信用するなら事実とも言える

結局事実は自分の姿勢や覚悟次第で変わってしまうのだ






なんでジェニファーチヨダ

役所提出用書類の記入例を見ていたら、なぜか海外の人向けの見本の氏名欄に記入されている名前が
ジェニファー・チヨダ
日本人向けは福岡太郎とかなのに、なぜ。。。

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吉野家号

吉野家、最近こんなのもやってるのか



でも吉野家を全然知らない人が見たらキャンピングカーを改造した田舎のデコ車にも見える
デザインは紙一重だ

noda from I-phone

勝手に八幡アートトリエンナーレ

八幡駅からQMACまでの道のりを、勝手にアート的なものを探して歩いてみた

1.大規模壁画作品







2.大規模インスタレーション








3.郵便局付き住居







終着点のQMACで正統な現代アートを見て完了
*QMAC(operation gallery)については九州アートBBSの記事を参照下さい

ふざけた記事で失礼しました。
でも40分の道のりはなかなか楽しかったです。

from I-phone

日本人は本当に偉い? / no.d+a

今回の震災で、暴動も大きな混乱もなく、秩序を維持したということが、海外メディアから取り上げられ、日本と日本人が再評価された。
これ自体は確かに素晴らしいことだし、正確には東北の方々が素晴らしかったわけで、それにはこちらも頭が下がる思いだ。
ただし、日本人は素晴らしい、には若干の懐疑心を感じるのも正直なところ。
少なくとも自分はそんなに素晴らしいものではない自信?がある。
むしろ、大災害とはいえ、他国の災害に対して、あれほど追悼の姿勢と支援の行動をとれる他国の方が凄いと思う。最貧国と言われ、たいした国交もないアフガニスタンからでさえ、支援表明があった。
しかし、果たして、例えばアフガニスタンで同じ災害が起こっていたら、日本人は、自分は、同じような追悼の意と支援ができていたか。福岡から見れば距離的には東北より近い釜山で同じ災害があったら、東北に対するのと同じような気持ちを抱き、行動をとっていたか。
はっきり言って残念ながらその自信はない。
日本が秩序を守れたのは、誤解を恐れずに言えば、しがらみが抑制したのだけではないのか。個々の道徳心や教養、責任からだけと言えるのか、わからないのではないか、と思ってしまう。なぜなら自分の実感がそうだから。
実感昨日起こったアメリカでの竜巻に対しては、東北ほどの思いが持てなかった。
それが、いわゆる日本人であるがゆえの、「世間」という感覚によるものなのか。
とにかく、ほとほと自分の小ささには情けなくなる。

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