しかし、この「勘」
どちらかというと馬鹿にした様なニュアンスがある言葉だが、実はこれがかなり重要だと僕はつねづね思っている。
勘とはいったい何なのか
ぱっと思い当たるのは、限りなく動物の本能に近い能力なのでは、ということ。
毎日原始的で同じ行動をとり、そこから得れる経験値によって、動物的「勘」は養われているという。
その判断力と迅速さたるや、人間はとうていかなわない。
地震予報装置が作動する前に、動物は避難している。
では、この「勘」の領域に人が行き着くためにはどうすれば良いか。
それは、天性であるところが大きい気がするが、それに加えて尋常ではない量の反復行動も重要ではないか、ということが考えられる。
ここで一度「勘」を体得してそうな「勘保持者」を想像してみる。
先にあげたマラドーナのほか、日本で言えば野球界の長嶋茂雄、あとは自分に近い建築業界でいけば安藤忠雄、その辺りがイメージされる。
すると、この「勘保持者」たちに共通していることに、失礼な言い方だが、「子どもっぽい」ということがあることが思い浮かぶ。
みな、まるで子どもがそのまま大人になったような人たちだ。
これはつまり動物性を残していると言えるのではないだろうか。
そして、もう一つこの「勘保持者」たちにに共通していることは、反復学習や反復練習などの、同じ行動を何度も繰り返して自らを鍛える能力に富んでいるということだ。
マラドーナは、夜ボールが見えなくなってもとことん練習をしていたという。しかもそれは、気がついたら夜だった、というから、凄まじい集中力だ。
ここで、「勘」を「感」として考えてみる。
そして「感」の対極を考えてみる。
先天的な「感」の対極にあると思われるのが後天的な「理」
「理」は「理性」と対応し、「感」は「感性」と対応する。
人間は成長するに従って「理」が芽生え、「感」が後退していく。
「理性」によって物事を考えようとするようになり、「感性」によって認識することを止めていってしまう。
ということは、「理性」がどうやら「感」の邪魔をしていそうだ。
先述の動物のことなど考えると、おそらく「勘」は「感」に「経験」が加わって生成されると思われる。
だとすると、なんとかその「感」が失われずに少しでも維持されていれば、そこに様々な経験が加わり、「勘」をすることができるのではないだろうか。
つまり考えるよりも行動することが先に立つことが重要ということだ。
それは思えばまさに子どもの行動原理そのものだ。
そしてその時、だから「勘保持者」たちは子どもっぽいのだ、ということに気がつく。
しかもその行動力と行動量は尋常ではないのだから、養われて行く「勘」は人知を超えている。
言葉悪く聞こえるかもしれないが、彼ら「勘保持者」からからは、「理論」の「理」の字も見えて来ない。
しかし、その凡人から見たら突拍子も無い判断が的中することはままあり、しかもそれは大きな衝撃を与えるような影響力を持つ。
それはまさに「勘」の成せる技なのである。
その膨大な量の練習によって積み重ねられた「経験」ともともと持っている「感性」によって生まれた、ハイブリッドで質の高い「勘」によるものなのだ。
数年前にスピルバークの映画に『マイノリティリポート』というのがあった
これは僕にとっては、大雑把に言えば、理VS勘(感)、の映画である。
「理」が生んだ高性能な技術を操る人間がひとたびそこから狙われる立場に立つと、頼りにするのは占い師やテレパシーなどの「勘(感)」。そして最後に主人公は見事切り抜ける。
つまり、常に示唆的なスピルバークを深読みすれば、所詮最後は「勘」には勝てないよ、ということなのではないかと考えてしまう。
そして今、あと少しでサッカー界において「勘」が「理」を打ち破ろうとした
そういう視点からもアルゼンチンの動向には注目していただけに残念だ
ちなみに「勘」の重要性を「感じ」ながら、こうやって「理」屈っぽく「考えて」いる段階で、僕には「勘保持者」になる可能性は限りなく薄いこと痛感させられる。