物質の力

やはり紙の本でないと読めない
そんなことを改めて実感した

最近仕事で長めの文書を読まないといけないことがあった。長いと言っても短編小説にも満たない程度の些細なものなのだが、なぜ長いと感じたかというと、それはデータで送られてきたものだったからだ。

pdfにしてA4用紙20ページほど。原稿用紙なら40〜50枚ほどだろうか。よく考えればたかだか20ページなのだが、しかしなぜかpdfで20ページだと、重たく感じ、読もうとするのになんだか覚悟のようなものさえ要る。それは、パソコンの画面を連続しと同じ姿勢で見なければならないからか、右手で微妙にページを送らないといけないからか。理由はよく分かっていない。ただ、ともかく、その資料をすぐには読む気になれず、ちょっと敬遠する日が数日続いていた。
しかしとにかく読まねばならない
意を決して画面に向かってみたが、やはり数行で嫌になる。
仕方ないから、時間があって気が向いたときに読もうと、プリントアウトすることにした。
ところが。
プリントアウトしてちょっと読み始めると、あれよあれよという間に読めてしまったのだ。

これは明らかに機器の画面上にある文字を読むのと、紙という物質上にある文字を読むのとの違いではないかと思った。タブレットを持っていないので電子書籍専用の機器は試していないが、間違いなくiPhoneでは読めなかったし、何より紙を持っているということ自体が何か文章との距離を身近にし、読むことに対する気軽さを与えてくれたように思う。

これからますます電子書籍が普及すると思うが、結果的に逆に読書から遠のく人が増えないようにだけは願いたい。そのためにも、紙の本は役割を変えて残るだろうし、紙という物質の価値も変わるのだと感じた。

a+b=XからX=a+bへ

今までの新築または20世紀のモダニズムは、
a+b
の答えXを求めようとするものだったのではないか。
21世紀になって様々な新たな手法が登場したとはいえ、それらはXという答えの出し方が変わっただけのようにも見える。
×とか÷が出てきて、√やsinなどが計算技術の進歩で出来るようになったという感じか。

しかし、再生案件をやっていて毎回感じるのは、そういう思考では限界があると言うか、無理があるということ。
なぜならすでに再生の場合、既存が式の右項として出ているような状況だからだ。
つまり、ある方法でXが導き出されたが、残念ながらそのXには価値が無くなってしまい、新たな価値を、与えなければならない。その時単純にXを否定してaに変えようとしたり、またはXに何か新たなaを加えて変えようとするのは、どうも違和感がある。それでは結局今までの思考と同じで、結末も同じではないか。
そうではなく、ある計算式の結果であったXを、さも別の計算式の結果のように見せる、例えば、2という右項は1+1で出てたものを4÷2で導き出されたように見せる、ということが出来れば、それこそまさに「デザイン」による再生ではないかと思うのだ。

そしてその思考方法が、新築を含めたデザイン全般にも適用できるようになれば、今までのような手法とはそもそも思想が違うものが生まれないかと思うのだが。
まだまだ先は見えてはいない。
ヒントがおそらく「編集」にあることまでは分かっている。

空間リテラシーが必要だ

これからの時代は建築家は空間リテラシーが問われると思う。
例えば災害時での対応や災害に向けた備えにしても、すぐに「作れない」状況下でどう「使う」かが重要になる。
使える空間を作らないといけないし、使えない空間を使えるようにしなければならない。














-- iPhoneから送信

情報を受け取る側として / no.d+a

事実って何なのだろう

「やらせ」メール問題や、
それを批判しているくせにそもそも世の中のことを正確に伝えてくれないマスメディアを見ていると、
「どうして正確な情報、事実を伝えてくれないのだ」と思うし、そう思っている人は多いと思う

しかし、正確な情報、事実、っていったい何なのだろうか

それが「やらせ」であることを知らなければ、そのメールはその時点ではそれを見た人にとってはそれが事実だったはずだし、何ら疑問を持たなかったのだろうと思う

例えば、ある百貨店の売上が前年比130%という記事があったとして、
それが実は実態と違ってむしろ前年比80%だということをその業界の人から聞くまでは、
130%が記事を読んだ側としては事実であり続ける
例えば、ある新聞の連載に書かれている人の生い立ちがあったとして、
それが実は実際の生い立ちとは違うということを知るまでは、
その書かれている生い立ちが読者にとっては事実となる
しかもこの場合は本人が書いているのだから、疑って読み始めたら読んでられない

じゃあどうすれば事実か事実でないかを知ることができるのか

それはもはや自分で確かめる以外に方法がないわけだが、
それははっきり言って不可能だ。
新聞やテレビの全ての情報の裏をとるなど出来るはずが無い
それに上記のように本人が間違っていた場合など、事実を知るのは至難の業で、警察ばりの捜査がいる

となると、
まあテレビと新聞の記事は半分は怪しい、
と日頃から疑ってかかっておくぐらいしかできないわけだが、

ただ、そもそも正確な情報、事実を知る必要があるのか、と言えるとも思うのだ

先日ある新聞の記事に、医学的にはその人の寿命をある程度迄測ることができる段階にきている、という内容の記事が掲載されていた。DNAのある部分の長さがその人の寿命に比例していることが分かったのだそうだ。
(ちなみに寿命を伸ばすためのDNAも発見されていて、そのDNAのスイッチをオンにするサプリメントをアメリカで販売したら、人が殺到したそうだ)

でもはたして寿命を知る必要はあるだろうか

寿命が分からないから人は日々コツコツと生きていけるのではないかと思う

例えば(これは本当に例えばの話だが)、生まれた段階でDNAを調べればその人の寿命だけでなく、特性、体質、能力、などまで分かってしまうとすると、おそらくかなりの割合の人が希望を失うと思う。ごくごくほんのわずかな特殊能力をもった人のみが希望を持てるかもしれないが、それはそれでプレッシャーだろうし、何をやってもできて当たり前に扱われ、その上結果まで見えているわけだから、取り組みがいがなくなってしまい、やはりつらい

民主主義の社会では、民主は全ての事実を知り、共有しておくべきだ、という考え方が一般的だが、
いくら自分の社会や自分に関することでも、「未来」に関することのように、自分に大きく関わる情報といえど知る必要があるとはっきり言えない事実もあると思う

もちろん人によっては知りたいと思う人も居ることだろう
そしてそれを知るかどうかの選択の権利があることが民主主義社会としては重要だと思うが、
全ての人が本当に冷静に選択の判断ができるかどうかは正直怪しいのではないかと思う
「寿命」など知りたくもないと思いながらも、気になって気になって仕方無く、結局聞いてしまう人が多いのではないか
その時、「あと〜年」ですと言われ、それが思っていたよりも全然短かった時、どうするのか

原発の情報にしても、もしも(これも本当にもしもだが)、実は世界中がもう取り返しのつかないほど汚染されているという事実があった時、それを聞いた人々は冷静に行動できるだろうか

先述の百貨店売上の話にいたっては、景気は「気」なのだから、80%の事実を聞かない方が、社会や経済にとっては良いかもしれない

要するに情報は、受け取る側の覚悟や教養もかなり求められるわけで、
それを前提に、メディアの情報を疑い、自ら確認し、受取り、理解し、責任をもって判断しなければならない
けして、発信側を追求し責めるばかりではいけないと思うのだ

そういう意味では、本当に「やらせ」があったのかどうか、本当に寿命が分かるのかどうか、確認していないのだから事実でないとも言えるし、記事を信用するなら事実とも言える

結局事実は自分の姿勢や覚悟次第で変わってしまうのだ






義援金と復興財源、個人と法人、の話 / no.d+a

東日本大震災から早くも1ヶ月
余震や原発、停電などの問題が続き、復興への推進力をそいでいる

それでも、日本全国、そして世界から、励ましのエールと支援が届き、
多少なりとも被災した人たちの助けになっていればと切に願う

義援金に関しても、著名人や企業からあいついで寄付の表明があがり、
いつどのように届くのは詳しく分からないが、被災した人々の生活復興の助けになるのではないかと思う。
政府も、原発の対処に追われながらも、徐々に復興への政策をまとめはじめた

とにかく一日でも早い震災の復興と原発の収束を願うばかりだ

さて、政府が補正予算を組み、その財源をどこからまかなうかという議論が各紙でも取り上げられている

そんな記事を読み、色々な人と話をする中で、最近知ったことがある

それは義援金と税金控除の話

通常でも寄付は一部税金が控除されることになっているが、今回のようなケースでは特別にその控除の上限を高く設定されている
法人からの寄付に関しては全額必要経費として認められるそうだ

ということは、だ

要するに法人からの寄付は、ざっくり言えば本来国に納められる予定だった税金が義援金にまわされる、ということになる
それはつまり、税収がその分減るということだ

さてしかし、国は国で、復興の財源をどうしようかと苦悩している
あの補正予算は、それら企業からの義援金は含めないで、算出されたものだ
国債の発行や、日銀の特別措置など、案は様々だが、とにかく苦しいことに違いはない

そうでなくてもそもそも減っていた税収だったわけだが、
皮肉な事に企業が義援金に回せば回すほど、ますます減って行く

そうなると自然と、復興特別税、という話だって浮上する
広く国民からいつもより多く税金を集めよう、ということだ

この話はなかなか複雑でナイーブだ

義援金は被災者の生活復興のための資金となる
復興財源はまちの機能復興のための資金となる

どちらも被災地復興のためにはかかせない

税金控除やそういった特別措置を低く設定すると、税収は増えるが、義援金が減る

でもそもそも控除があるかないかで寄付を決めるべきではないのではないか
は理想論で、やはり実際は減るだろう
それでは被災者にとって苦しい 
それに企業としても国に税金納めるよりも義援金の方が積極的に出すだろう

ここで、
ん??
待てよ
と思った点がある

それは、企業は、例年払っている税金を義援金に回すだけだから、別に例年と出すお金は変わらない、ということだ。

それは本当に支援と言えるのか、とも思うが、やはり寄付は強制できるものではないし、控除上限を低くしてもその分だけさらに義援金を寄付するかは、正直怪しいところかもしれない

それにここで他にもう一つポイントなのは、個人での寄付の場合、全額控除にはならないということだ
通常の寄付よりは高い割合が認められるそうだが、とにかく全額ではないらしい

つまり、例えば企業はその年に払いそうな税金に近い額を義援金にまわせば、かなりの税金を払わなくて済むようになるが、個人は義援金を払いつつ、かつ税金も払うことになる

う〜ん、なんだか釈然としない

法人が税金の予定だったものを義援金としてまわす

税収が減る

税金が高くなる

個人が税金を払ってまかなう

法人を「人」として扱うなら、なんだか変な感じだ

被災地を復興するためには財源が要る
国をあげて復旧しなければならない
その時頼りになるのは「大きな人」としての「法人」ではないのか

しかし、「法人」という人は「個人」が構成している、と考えればまた違うのか
法人は経済活動における架空の「人」
こういう復興はやはりリアルな「個人」みんなでやるべきだ
という風にも考えられる

法人っていったい何なのだろう

なんだかよく分からなくなってきた

理想は、義援金も多くなり、復興財源のための税収も減らない、というしくみだが
これは難しいのだろうか
個人が個人を助け、法人が(政府を通して)まちを助ける、では駄目なのだろうか

いずれにしても、個人での寄付、と、法人での寄付、は違うということ
ソフトバンクで寄付するのと孫正義で寄付するのとは意味が全然違うということだ
石川遼の1億と企業の1億は全然意味が違うということだ
そこをしっかりふまえて、今行なわれている支援活動を見、考えたいと思う