感性から感、そして勘へ / no.d+a

マラドーナ監督擁するアルゼンチンの快進撃は残念ながら終わってしまった。
はっきり言ってそこには戦略も戦術も無かった。
あるのは彼が持っている「勘」のみ。
このままアルゼンチンが優勝したら、名だたる各国の代表監督の知略を「勘」が打ち破ったということになり、一大ニュースとなっただろう。

しかし、この「勘」
どちらかというと馬鹿にした様なニュアンスがある言葉だが、実はこれがかなり重要だと僕はつねづね思っている。

勘とはいったい何なのか
ぱっと思い当たるのは、限りなく動物の本能に近い能力なのでは、ということ。 毎日原始的で同じ行動をとり、そこから得れる経験値によって、動物的「勘」は養われているという。 
その判断力と迅速さたるや、人間はとうていかなわない。 地震予報装置が作動する前に、動物は避難している。 

 では、この「勘」の領域に人が行き着くためにはどうすれば良いか。
それは、天性であるところが大きい気がするが、それに加えて尋常ではない量の反復行動も重要ではないか、ということが考えられる。

ここで一度「勘」を体得してそうな「勘保持者」を想像してみる。
先にあげたマラドーナのほか、日本で言えば野球界の長嶋茂雄、あとは自分に近い建築業界でいけば安藤忠雄、その辺りがイメージされる。
すると、この「勘保持者」たちに共通していることに、失礼な言い方だが、「子どもっぽい」ということがあることが思い浮かぶ。
みな、まるで子どもがそのまま大人になったような人たちだ。
これはつまり動物性を残していると言えるのではないだろうか。

そして、もう一つこの「勘保持者」たちにに共通していることは、反復学習や反復練習などの、同じ行動を何度も繰り返して自らを鍛える能力に富んでいるということだ。
マラドーナは、夜ボールが見えなくなってもとことん練習をしていたという。しかもそれは、気がついたら夜だった、というから、凄まじい集中力だ。

ここで、「勘」を「感」として考えてみる。
そして「感」の対極を考えてみる。 
先天的な「感」の対極にあると思われるのが後天的な「理」 
「理」は「理性」と対応し、「感」は「感性」と対応する。 
人間は成長するに従って「理」が芽生え、「感」が後退していく。 
「理性」によって物事を考えようとするようになり、「感性」によって認識することを止めていってしまう。
ということは、「理性」がどうやら「感」の邪魔をしていそうだ。
先述の動物のことなど考えると、おそらく「勘」は「感」に「経験」が加わって生成されると思われる。
だとすると、なんとかその「感」が失われずに少しでも維持されていれば、そこに様々な経験が加わり、「勘」をすることができるのではないだろうか。

つまり考えるよりも行動することが先に立つことが重要ということだ。
それは思えばまさに子どもの行動原理そのものだ。
そしてその時、だから「勘保持者」たちは子どもっぽいのだ、ということに気がつく。
しかもその行動力と行動量は尋常ではないのだから、養われて行く「勘」は人知を超えている。 
言葉悪く聞こえるかもしれないが、彼ら「勘保持者」からからは、「理論」の「理」の字も見えて来ない。 
しかし、その凡人から見たら突拍子も無い判断が的中することはままあり、しかもそれは大きな衝撃を与えるような影響力を持つ。 
 それはまさに「勘」の成せる技なのである。 その膨大な量の練習によって積み重ねられた「経験」ともともと持っている「感性」によって生まれた、ハイブリッドで質の高い「勘」によるものなのだ。 

 数年前にスピルバークの映画に『マイノリティリポート』というのがあった
これは僕にとっては、大雑把に言えば、理VS勘(感)、の映画である。
「理」が生んだ高性能な技術を操る人間がひとたびそこから狙われる立場に立つと、頼りにするのは占い師やテレパシーなどの「勘(感)」。そして最後に主人公は見事切り抜ける。
つまり、常に示唆的なスピルバークを深読みすれば、所詮最後は「勘」には勝てないよ、ということなのではないかと考えてしまう。

そして今、あと少しでサッカー界において「勘」が「理」を打ち破ろうとした
そういう視点からもアルゼンチンの動向には注目していただけに残念だ

ちなみに「勘」の重要性を「感じ」ながら、こうやって「理」屈っぽく「考えて」いる段階で、僕には「勘保持者」になる可能性は限りなく薄いこと痛感させられる。

W杯 日本の大衆性 / no.d+a



終ってしまった日本のワールドカップ。
もちろんこれからまだまだサッカーファンにとっては見逃せない試合が続くし、
日本代表も早速新たな体制づくりが始まり、来年からブラジル大会アジア予選が始まる。

しかし、明らかに世間はワールドカップ終了モードに入っていて、メディアも明らかに取り上げる量が減った様に思う。新聞もさく紙面が減った。もちろん今日まで2日間の休養期間だったこともあるが、日本が勝ち残っている時は、日本以外の記事もそれなりに多かったように思う。

僕は先日の日本対パラグアイ戦はこれまで通り近くのアイリッシュパプで観戦した。
しかし、「これまで通り」とは、店が同じ、ということだけで、まったく店内の雰囲気は違うものだった。
23時キックオフという時間にも関わらず凄い数のお客さん。
みな、勝ちTなどを着たり、顔にペイントしていたり。
小さな店に2局も中継クルーが入っている。
店内の冷房がまったく効かない状況で、もはや山手線のラッシュ時かという状況。
キックオフの時間が近づくと、既にわーわーとかなり騒がしくなってきた。
パラグアイの国歌斉唱など誰も聞いておらず、あやうく君が代もスルーしそうになったので、思わず、「はい、君が代!!」と叫んでしまった。そしたら急にみんな大声で合唱。
いよいよキックオフ。
すると、ちょっとでも代表選手がミスしたりすと、「なんしよとや!あいつ!」とか、「ファウルやんけ!」とかいうヤジが飛ぶ。
しかしそれもしばらくすると、試合が硬直したものであったこともあって、思い思いに各グループで騒ぎ始め、いやコールし始めた。「にっぽん!にっぽん!」とか、ちょっとキーパーが触ると、「川島!川島!」とか。
前半が終ると一気に暑い店内を出て外でみんな休憩。
店内に残っていた人が後半開始とともに拍手すると、それで後半開始に気づいた人が店内に戻って来る。
しかし後半、そして延長戦、とますます日本の見せ場は少なくなるばかり。
そしてちょっとでも相手選手がペンルティーエリア内に近づくと、「キャー!」とか「おい!おい!」とかいうヤジがとび、ピンチが増えるもんだから、最後はそんなヤジばかりになった。
もう延長後半になると、試合そっちのけで円陣くみ始めたり、PK前には日本の国旗を掲げて歓声を上げたり。

ここまで描写してくれば分かってもらえると思うが、
要するに「サッカーを見ている人」が全然いなかった、ということが言いたい訳だ。

これは自分がまだ学生だった2002年日韓大会の時にも感じたこと。

それまでほとんど関心の無かった人が、日本代表の活躍をワイドショーなどで知り始め、いきなりサポーターが2倍にも3倍にもなる。
でもその大半の人は、日本代表のサッカーを応援したい、ワールドカップを見たい、のではなく、ゴールの瞬間や勝利の瞬間に立ち会って騒ぎたいだけ、であることが多い様に思う。
同じ23時キックオフだった初戦カメルーン戦の時の店内はいつもよりちょっと多いぐらいだったし、周囲の関心もほとんど無かった。むしろ「W杯だ!日本応援するぞ!」なんて言っていると、何言ってんだか、といった反応でさえあった。ましてやイングランド戦やコートジボアール戦などの親善試合になったら、それを見る為にいつもより早く家に帰るなんてことが「??」のまなざしだったし、その前のアジアカップ予選や他のキリンカップ戦などにいたっては、見ている人を捜すことの方が難しかった。
それがとたんに国民そうででの応援状態。

これにはいつも複雑な気持ちになる。
(ちなみにドイツ大会は代表が活躍しなかったので、こういう気持ちにはならなかった)

サポーターが増えること、応援する人が増えること、サッカーに関心を持つ人が増えること、は間違いなくいいことだ。

でもそれはいつも毎回一過性でしかない。
サッカー協会もなんとかこの熱気をJリーグに繋げようと毎回頑張るが、やはり最後にはもともとのファンの人が残る。それはメキシコオリンピックでの銅メダル獲得の頃から変わらないと思う。
これはサッカー協会の責任というよりは、そういった急増のサポーターはあくまで、「飲んで踊って騒ぎたい」だけなのだから、定着ファンにするのはかなり困難であることの方が大きな要因だ。
これが先日の北京オリンピックでのソフトボールなどであれば話は別。それまで目に触れ得る機会が無かった訳だから、それをきかっけにファンになる可能性も高かったのではないかと思う。
でもサッカーは違う。もうJリーグが出来てしばらくたつし、何より一度日韓大会で充分盛り上がっている。にも関わらずこの状況なのはもう変わり様がないと思う。

こんな風に偉そうに言う僕だって、せいぜい日韓大会で韓国を二往復したり、チャンピオンズリーグやセリアA、クラブW杯を見に行ったことがあるぐらいで、日本代表戦やJリーグ(発足前のG大阪釜元監督時代の試合を1度だけ見たが)は見たことが無いので、生粋のサポーターとは言わせてもらえないだろう。勝ちTはじめブルー系の応援グッズも一つも持っていない(代わりに毎大会オリジナルでTシャツを作っているが)。ただのサッカー好き程度だ。

だから僕がここで言いたいのはそういう人への批判ではない。
ただただ毎回そういう光景から日本の大衆性を感じてしまうということとそれへの不安感だけだ。

こうした状況に大きく加担しているのはマスメディアだ。
出国前と比べて手のひらを返した様な賞賛ぶりと取り上げぶり。
あれだけ批判しまくり、否定しまくっていたことはどこへいったのだ。
まったく無関心だったことはどこへいったのだ。
責任感のかけらも無い

岡田監督が仏頂面になってしまうのはフランス大会の時のことがかなりトラウマになっていると言う。一躍予選初突破の立役者として祭り上げたと思ったら、カズ外し、練習非公開、3戦全敗、などをへて「お前」扱いになった。
あんな受け答えになるのも無理は無い。

これは何もサッカーに限ったことではない。

一斉にメディアが「金で汚れてる」様な取り上げ方をすると、世論がそれに反応し、幹事長辞任に追い込まれる党がある。検察が二度も「白」と判定したのだから普通ならば真っ白だ。

ある番組で納豆が取り上げられると、スーパーの棚から納豆が無くなる。
そして次の日別の食物が取り上げられると今度はそれが無くなり、納豆があまる。

こうした大衆性は、実は最近むしろ「大衆性という概念さえメディアや広告が生み出した架空のもので、実際にそんな人はいないのではないか」と考えていた。
つまり、みんなが「大衆は怖いねえ」と言いながら、みんなが「俺は大衆じゃないけどな」と思っているという状況ではないかということ。存在してそうな「大衆」という蜃気楼を遠くからみんなで眺めているという構図。

でも今回のことで、「やっぱり大衆性はある」と再確認した。
いや別の言い方をすると、「やはり大衆はいなかった」けど「みんな大衆性を持っている」ということが新たに分かった、とも言える。

要するに誰も自分が大衆であるという自覚が無いことが大衆性を生んでいるのではないか、ということ。
それは煽るメディアの自覚とも共通する。
業界の人は誰も「私は大衆性を煽る報道をして加担しています」とは自覚していない。
むしろみんな「いやあ本当に最近のメディアは駄目なのが多いですよね〜」とさえ言う。

大衆性が強くなることは民主国家としては良く無いことだと思う。
政治や社会を動かしている民衆が大衆であったら、それはとてもとても恐ろしい、責任をとる人がいない社会となる。
日本はまさに今そこにいるかもしれない。

そんな時、一人でも「自分は大衆の一人だ」「自分はメディアに煽られている人の一人だ」と自覚することが重要なのではないか。
それを強く思った。
もちろん僕もその「大衆の一人」として。




W杯 メディア報道の恐ろしさ / no.d+a

昨日の残念な試合による喪失感を癒そうと、新聞のスポーツ欄を読んでいたら、韓国の記事があった。
それはどういう記事かというと、韓国では日本戦の視聴率が21%とかなり良かった、というもの。
ここまでなら、へえ韓国の人達も応援してくれていたのだなあ、と思う。

が、しかし、良く読むと、パラグアイの勝利に歓声があがった、とある。
そして、韓国が負けたので日本を応援する理由はない、といったコメントも掲載されていた。
要するに韓国の人は日本が負けることを願っていた、というニュアンスの記事だ。

これは、さすがにコメント自体は事実ではあるだろうが、しかし皆がそうだとは思えない。
日本にも韓国を応援する人とそうでない人がいるのだから、同じ様な状況であるはずだ。
しかしこの記事を額面通り受け取ってしまうと、すごく危険だ。
そして額面通り受け取ってしまう人ほど、韓国の人と交流したことがない人であることが多い気がするのだ。
イメージすれば分かり易いが、例えば中学生という色々なことに敏感な頃を思い出してみる。もし隣の中学校に一人も知り合いがいなければ、誰かに「あの中学は嫌な奴が多い、感じの悪い学校らしいで」と言われたら、そうなのか、と思ってしまう。しかし、一人でも仲の良い友達がいれば、まあでも少なくともあいつはいい奴だしなあ、とけして振り回されることが無いと思う。
要するにコミュニケーションの頻度と量の問題だ。

日韓の交流をしている人は間違いなく日頃から感じている自分の印象を信じるはず。
そういう人が増えれば、この記事に振り回される人も少なくなだろう。
(ただここで、簡単に噂を信じて、日頃接していてそんなこと思っても無かったのに、そういう気分になる人も多い、という別の問題もあるのだが)

とにかくますます都市間交流の重要性を感じた記事だった。

情報の偏りと国の偏り

ちょっとナイーブな問題だが、勇気をもって触れてみたい。

それは北朝鮮問題の話。

触れると言っても、政治論を書くわけでもないし、だいいち、専門家でも無いので、それは避けたい。

ただ、純粋に報道を見ていて感じることがあるので、それをメモ的に記しておきたい。

それは、情報の隔たり(へだたり)による偏り(かたより)だ。

北朝鮮への外からの見方、つまり北朝鮮外からの各国の見方に関する情報は、どんどん入ってくる。
中国がどう考えているかははっきり分からないものの、それでも多少は見えてくる。
この情報技術が発達した社会では、昔以上にそういった情報を一般大衆もマスコミもつかみやすくなっただろう。
しかし、北朝鮮からの情報はまったく入って来ない。
これは当たり前と言えば当たり前。国自体が情報を絞ってしか発信していないし、ましてや民衆から発信されることはあり得ない国だからだ。

でもどうだろう。
だからといって北朝鮮が何も考えていないわけではないし、市民も何も知らず考えていないわけではないはず。
統制されているとはいえ、何らかの事情と状況があるはずなのだ。

しかし情報が流れて来ないことで、何も考えていないと思われたり、得たいが知れないと思われたりしていて、まるで別の生物を眺めているような雰囲気が、報道にはある。そして、勝手な憶測、しかも安易な憶測が流れているように思われる。
でも相手は人間だ。主義や体質、習慣は違えど、何か事情があるのは事実じゃないだろうか。

ここにあるのは、コミュニケーションが不測している者同士に生じ易い、誤解やもめ事に似ているものがあるように思う。仲間内の情報だけを頼りにしていて、事実をつかめるはずはない。

そして、この状況こそ、
ちょっと似ている状況がかつてあったのではないかと思う状況なのだ。

それは二次大戦前の日本と世界の関係。

ここからは、浅い知識による想像の世界だが。
大国のアジアへの植民地支配に抵抗し、アジアで初の主権国家を目指していた日本。
やり方もした事もほとんど間違ってしまったが、目指したのは確かだろう。
つまり当時体勢を占めていた欧米とは別の対立軸を打ち出したわけだ。
その時、他の大国は、様々な理由と立場から、経済制裁をかけ、様々なプレッシャーをかけてきた。
日露先生や日清戦争では、当時としては合法であった法に従えば得れたはずの戦勝国としての対価も、ほとんど得らせてもらえなかった。
すると国は衰弱し、貧困が増し、内政は混乱し始める。国は国民のために、他の大国もやっていることであった、植民地や国土を広げようと、大陸へ出て行く。
しかしそれを侵略行為とみなされて、国際社会から非難され孤立していく。
確かに植民地支配は良くないし、やりかたもまずかった。
でもアフリカ大陸における欧米のそれと比べたら圧倒的に悪いとは言えなかったはず。
台湾では今でも親日の人が残っているぐらいだし、満州国は五国共和を掲げ、植民地とは呼ばなかった。それに比べ、アフリカは今でも植民地時代の影響による民族紛争が続いている。
でもやっぱり力が上の方が価値のイニシアティブを握るもの。
そういう日本の主張はかき消されていっただろう。
満州事変をはじめとする各事変も、あくまで日本の侵略行為と一方的に見なされた。
どちらが挑発したか、とか、どちらが喧嘩を売ったか、などは闇に消えて分からなくなった。
そして日本は今でいう、テロ指定国家になったわけだ。
ますます窮地に追い込まれる日本は、国内の民衆による政府への反発が高まり、軍部への期待が膨らんだ。
そして、軍部の暴走と軍部主導による大戦突入へ。

今の北朝鮮情勢と似ているなと思う点は
・世界の大勢と違う主義と方向性が否定されている
・経済制裁を受け、ますます国内が不安定になっている(らしい)
・軍部が主導権を握り始めている(らしい)
・微妙な国境線でのもめ事だが、全て非が北朝鮮にあると決めつけられている
・世界中からテロ国家と思われている
・ごく少数の国家と手を組んでいる(らしい)
・国内の現実や空気が他国へ伝わっていない
・国外の情報が正しく入っていない(はず)
などだ。
特に最初に触れた、情報不足とコミュニケーション不足による相互理解の不足は、よく似ているのではないかと思うのだ。

僕はけして北朝鮮を擁護する気もないし、大戦中の日本を正当化するつもりも無い。むしろ北朝鮮には早く安定的で民主的な国になってもらいたいと切に願っている。

しかし、かつての日本がそうであったように、軍部以外けして誰も最初から大戦など望んでいなかったのに、誤解が誤解をよんで戦争に突入していく、そんな状況だけは避けて欲しいと思うのだ。

どこか第3国(中国でもアメリカでも国連でもなく)が正確な情報をもとに相互の間をとりまとめれないものだろうか。それは、国でなくても、民間でもいい。いやむしろしがらみの無い民間がいいのかもしれない。

とにかく、今の、「こちらの情報と考えは絶対に正しい」として責めよる報道と世界の風潮に強い危機感と違和感を感じるのだ。
こういう時こそ多角的な視点と深読みしてみる姿勢が重要だと思う。
今こそメディアはその多様な価値観をうまく世界に伝えて欲しい。







解散ではなく活動停止になる理由

音楽グループはよく活動停止や解散をするものだ。

特にロックバンドは、音楽性の違い、などを理由に解散になることが多い。
最近も某人気韓国アイドルグループが活動を停止した。

しかし、今回のこの活動停止からは、色々今までとは違う事情見えてくる。
はたから見たら今回のは明らかに解散と呼ぶのが正しいはず。でも解散ではなく活動停止なのだ。 もちろん、所属事務所側に決定権があって、解散を許さなかったという面が大きい。 でも、どうやらそう簡単に解散とは言えない事情がある様だ。

事務所的には、金輪際二度と再結成の見込みが立たないわけではないとはいえ、何かメリットがあるわけでもない様に見える。グループ名の所有権だけ持って解散にした方が、サイトの管理や問い合わせへの対応を止めることなどができて、そこにかけてきたコストが抑えられるはず。

しかし、ここが今のショービジネスの複雑さ。

事務所は様々なところとこの名前で契約しているのだ。
例えばクレジットカード。 クレジットカード会社と契約してオリジナルカードを作って、会員をたくさん抱えている。 おそらくクレジットカード会社とは何年間かの契約になっているだろうし、会員の管理もしている。これを簡単には破棄できないわけだ。

要するに、もはや活動しついる本人たちとは無関係な要因で、停止か解散が決まっている。
そこには、アーティストやファンの意向や配慮はまったく無い。

あくまで想像の範囲を脱しえないが、アーティストの動向一つで、様々な様相と関係が見えてるものだ。 from I-phone