暗黙の了解は高度な文化を生む / no.d+a

あるいつも配達を頼んでいるお弁当屋さん
いつもらったか分からないので、けっこう前のものなのかもしれないが、メニュー表が事務所にあって、
それを見ていつも注文している。
前といってもせいぜい1〜2年の話だと思うのだが。

このメニュー表にある料金、実は実際の料金と違う

これが実際の価格より高いと困るのだが、その逆で、安いのだ。
それが全部そうなのか、一部そうなのか、は分からない
そしていつから改訂されたのかも分からない
店頭の値段と配達の値段が一緒なのかどうかもさえも知らない

だからメニュー表を見て頼む時、一応値段なんかも見て考えるわけだが、
たいていは思っていたよりも20円ぐらい安い料金を請求される

思っていたよりも安いもんだから、なんとなく得した気分になるので、
正しいメニュー下さい、とは言わず、ずっとこのメニューを使っている

ところが今日、ご飯抜きのおかずだけ、というのをスタッフが頼んでみたら、
メニューにある値引き額よりも少なかった

でもなぜか、ええー!、という気分にはならなかった(彼はなったかもしれないが。。。)
メニューが古いだけかもしれないから非はうちにあるかもしれないし
でも作成した日付の入っていないメニュー作るなんて、
このご時世一歩間違ったら、「ここには料金が変わるかもしれません、なんて無いじゃないですか!日付もないし!この料金にして下さい!」とか言われそうな時代なのに、かなりリスキーだ
でも、そういう「いい加減」なところが悪く無いなと思ってしまう
まあまあ、そういうこともあるんだし、ここで「書いてあるのより高い!」なんていったら野暮
それなら、今まで安かった分に対して、「書いてあるのより安いから多く払います!」て言わないといけない
と思う

他にもある

近くにあるアジア系料理屋さん
昨年の今ぐらいに「割引カード」なるものを発行した
最初に幾らかまとめて払って入ると、それを見せるたびにランチが割引になる
この割引率がかなり良くて、近いこともあり、頻繁に通うことになった
既に元は完全に取っている
このありがたいお得な割引カード
実は有効期限は昨年末だった
ところが、知らずに年明け見せてみると、使えてしまった
「あ、有効期限年末にしてしましたっけ?まあ、年度末ぐらいまでは使えるようにするつもりですから」
だそう
これはヘビーユーザーにとってはありがたい話
でも中にはちゃんと期限を守って、捨ててしまった人もいるかもしれない
そんな人が知ったら「えー!!そんなのちゃんと言って下さいよ!」となりそうなもんだ
それに「あ、やっぱりそれもう使えないことにしました」と急に言われる可能性もあるが、
その時に「こないだ年度末までって言ったじゃないですか!」と言ってしまったら、それは野暮だ

こういう、なんとも言えない、あいまいなこと
そしてお互い、まあ細かいことは言いっこ無しで、という関係

これを「暗黙の了解」と言ったら、使い方が間違っているかもしれないが、
とにかく、ちゃんと確認しあったわけでもないけど、お互いなんとなく理解している、ということに間違いはない

こういうことって、重要だし、良い文化だと思う

当たり前になり過ぎるとまずいし、「そんなことこういう時は当たり前だろ」とどちらかが言い始めたら、
間違いなく、ちぐはぐになってもめる。
これだけ多様な価値観をもっている人がいる社会と時代になって、
ますますそれが原因で問題になっていることがたくさんある。
建築の構造偽装の裏にあった設計事務所と構造事務所の関係だって、
食品会社の偽装表記だって、それが原因だと思う
その業界ではそれが当たり前、となってしまって、それが本当は良く無いことだということが忘れ去られ、
他の業界や正当な基準のスポットが当てられたら、大問題として噴出してしまう

でも、「これは本当はこうあっちゃいけないんだけど、まあいいじゃないか」ということは
時に文化を生んだり、維持したりすることに力を発揮することもあると思う

例えば相撲なんてそうだったんじゃないかと思う

大相撲は最初からスポーツとして始まったわけではない
どちらかというと今で言うエンターテイメント。まさに興行だったはずだ。
取り組みなんて場所中に星の数を調整する感じで決められて行くし、全然公平ではない
下位の力士でも、勝ち続けると、通常なら当たらないはずの上位陣と当てられてしまう
もしスポーツとしての公平性をいうなら、場所前にくじ引きかなんかで、全日程の取り組みを決めるべきだ
もしくは、トーナメント制か総当たり制にでもしないといけない
でないと、本当にその場所で優勝した力士が最強の力士であるとは証明できない

でもくじ引き制なんかにしたら、全然面白く無い
くじ運の良かった力士が上位と当たらずに全勝優勝ってことが起こってしまう
かといってトーナメント制だとあっという間に日程が終了するし、最終日なんて決勝の1番で終ってしまう
総当たり制にしたら逆に時間がかかり過ぎて15日間では終らない

要するに今のしくみを見れば、興行性に重きが置かれているのは一目瞭然だと思うのだ

つまり、人は、相撲をスポーツではなく、プロレスに近い、興行だと思って見てきたはずだ

たまに大技が出たり、下位の力士が上位陣を破ったり、長丁場の大相撲が展開されたり

「これ本当は一部芝居が入っているかもしれないけどなあ」

と認識しながらも、それに目をつぶって、あたかも真剣勝負であるかのように楽しむわけだ。

もちろん興行側は、表向きは「もちろん真剣勝負です」「正真正銘のスポーツです」としか言えないが、「そんな野暮な質問するなよ」って気分が本音ではないか。もしくはそういう質問をする人も知っていてあえてしている文化もあって、それにはそう答える、みたいな感じだったかもしれない。

ところが今回の事件は、ある意味、見る側が暗黙の了解を破った、とも言える

興行側にしてみたら、えー!そんなの当たり前じゃないか!言いっこ無しだろ!!って気持ちじゃないのか

もちろん金銭的なやり取りのある、買収による八百長、は良く無い
もしそれに賭博までからんでいたなら、それはまた別の問題

でも、プロレスファンがけして、「おいそこで締めて終らせてしまわないのは変だろ!手抜きだ!」と開始数分の段階で言わないのと同じで、まさに言いっこ無しの暗黙の了解が成立させていたのではないか。

暗黙の了解さえ許さなくなった時代

奥深く、高度な文化ほど、こういう時代には不向きだ

しかし果たしてそれが人間にとって失って良いものなのかどうかは分からない








ショック!一宝軒閉店!#daimyo

な、な、な、なんと
大名の老舗大衆中華料理屋の一宝軒が1月いっぱいで閉店!
いつも来客があった時は使ってたのに、大変残念。
アバクロやバーニーズニューヨークが出店する中、こういう地元のお店が無くなるのは大変残念。グローバルなお店とローカルなお店が混在しているのが天神大名地区の特色なのに。
福岡が300円居酒屋のようなチェーン店ばかりにならないことを心から祈ります。


from I-phone

W杯 日本の大衆性 / no.d+a



終ってしまった日本のワールドカップ。
もちろんこれからまだまだサッカーファンにとっては見逃せない試合が続くし、
日本代表も早速新たな体制づくりが始まり、来年からブラジル大会アジア予選が始まる。

しかし、明らかに世間はワールドカップ終了モードに入っていて、メディアも明らかに取り上げる量が減った様に思う。新聞もさく紙面が減った。もちろん今日まで2日間の休養期間だったこともあるが、日本が勝ち残っている時は、日本以外の記事もそれなりに多かったように思う。

僕は先日の日本対パラグアイ戦はこれまで通り近くのアイリッシュパプで観戦した。
しかし、「これまで通り」とは、店が同じ、ということだけで、まったく店内の雰囲気は違うものだった。
23時キックオフという時間にも関わらず凄い数のお客さん。
みな、勝ちTなどを着たり、顔にペイントしていたり。
小さな店に2局も中継クルーが入っている。
店内の冷房がまったく効かない状況で、もはや山手線のラッシュ時かという状況。
キックオフの時間が近づくと、既にわーわーとかなり騒がしくなってきた。
パラグアイの国歌斉唱など誰も聞いておらず、あやうく君が代もスルーしそうになったので、思わず、「はい、君が代!!」と叫んでしまった。そしたら急にみんな大声で合唱。
いよいよキックオフ。
すると、ちょっとでも代表選手がミスしたりすと、「なんしよとや!あいつ!」とか、「ファウルやんけ!」とかいうヤジが飛ぶ。
しかしそれもしばらくすると、試合が硬直したものであったこともあって、思い思いに各グループで騒ぎ始め、いやコールし始めた。「にっぽん!にっぽん!」とか、ちょっとキーパーが触ると、「川島!川島!」とか。
前半が終ると一気に暑い店内を出て外でみんな休憩。
店内に残っていた人が後半開始とともに拍手すると、それで後半開始に気づいた人が店内に戻って来る。
しかし後半、そして延長戦、とますます日本の見せ場は少なくなるばかり。
そしてちょっとでも相手選手がペンルティーエリア内に近づくと、「キャー!」とか「おい!おい!」とかいうヤジがとび、ピンチが増えるもんだから、最後はそんなヤジばかりになった。
もう延長後半になると、試合そっちのけで円陣くみ始めたり、PK前には日本の国旗を掲げて歓声を上げたり。

ここまで描写してくれば分かってもらえると思うが、
要するに「サッカーを見ている人」が全然いなかった、ということが言いたい訳だ。

これは自分がまだ学生だった2002年日韓大会の時にも感じたこと。

それまでほとんど関心の無かった人が、日本代表の活躍をワイドショーなどで知り始め、いきなりサポーターが2倍にも3倍にもなる。
でもその大半の人は、日本代表のサッカーを応援したい、ワールドカップを見たい、のではなく、ゴールの瞬間や勝利の瞬間に立ち会って騒ぎたいだけ、であることが多い様に思う。
同じ23時キックオフだった初戦カメルーン戦の時の店内はいつもよりちょっと多いぐらいだったし、周囲の関心もほとんど無かった。むしろ「W杯だ!日本応援するぞ!」なんて言っていると、何言ってんだか、といった反応でさえあった。ましてやイングランド戦やコートジボアール戦などの親善試合になったら、それを見る為にいつもより早く家に帰るなんてことが「??」のまなざしだったし、その前のアジアカップ予選や他のキリンカップ戦などにいたっては、見ている人を捜すことの方が難しかった。
それがとたんに国民そうででの応援状態。

これにはいつも複雑な気持ちになる。
(ちなみにドイツ大会は代表が活躍しなかったので、こういう気持ちにはならなかった)

サポーターが増えること、応援する人が増えること、サッカーに関心を持つ人が増えること、は間違いなくいいことだ。

でもそれはいつも毎回一過性でしかない。
サッカー協会もなんとかこの熱気をJリーグに繋げようと毎回頑張るが、やはり最後にはもともとのファンの人が残る。それはメキシコオリンピックでの銅メダル獲得の頃から変わらないと思う。
これはサッカー協会の責任というよりは、そういった急増のサポーターはあくまで、「飲んで踊って騒ぎたい」だけなのだから、定着ファンにするのはかなり困難であることの方が大きな要因だ。
これが先日の北京オリンピックでのソフトボールなどであれば話は別。それまで目に触れ得る機会が無かった訳だから、それをきかっけにファンになる可能性も高かったのではないかと思う。
でもサッカーは違う。もうJリーグが出来てしばらくたつし、何より一度日韓大会で充分盛り上がっている。にも関わらずこの状況なのはもう変わり様がないと思う。

こんな風に偉そうに言う僕だって、せいぜい日韓大会で韓国を二往復したり、チャンピオンズリーグやセリアA、クラブW杯を見に行ったことがあるぐらいで、日本代表戦やJリーグ(発足前のG大阪釜元監督時代の試合を1度だけ見たが)は見たことが無いので、生粋のサポーターとは言わせてもらえないだろう。勝ちTはじめブルー系の応援グッズも一つも持っていない(代わりに毎大会オリジナルでTシャツを作っているが)。ただのサッカー好き程度だ。

だから僕がここで言いたいのはそういう人への批判ではない。
ただただ毎回そういう光景から日本の大衆性を感じてしまうということとそれへの不安感だけだ。

こうした状況に大きく加担しているのはマスメディアだ。
出国前と比べて手のひらを返した様な賞賛ぶりと取り上げぶり。
あれだけ批判しまくり、否定しまくっていたことはどこへいったのだ。
まったく無関心だったことはどこへいったのだ。
責任感のかけらも無い

岡田監督が仏頂面になってしまうのはフランス大会の時のことがかなりトラウマになっていると言う。一躍予選初突破の立役者として祭り上げたと思ったら、カズ外し、練習非公開、3戦全敗、などをへて「お前」扱いになった。
あんな受け答えになるのも無理は無い。

これは何もサッカーに限ったことではない。

一斉にメディアが「金で汚れてる」様な取り上げ方をすると、世論がそれに反応し、幹事長辞任に追い込まれる党がある。検察が二度も「白」と判定したのだから普通ならば真っ白だ。

ある番組で納豆が取り上げられると、スーパーの棚から納豆が無くなる。
そして次の日別の食物が取り上げられると今度はそれが無くなり、納豆があまる。

こうした大衆性は、実は最近むしろ「大衆性という概念さえメディアや広告が生み出した架空のもので、実際にそんな人はいないのではないか」と考えていた。
つまり、みんなが「大衆は怖いねえ」と言いながら、みんなが「俺は大衆じゃないけどな」と思っているという状況ではないかということ。存在してそうな「大衆」という蜃気楼を遠くからみんなで眺めているという構図。

でも今回のことで、「やっぱり大衆性はある」と再確認した。
いや別の言い方をすると、「やはり大衆はいなかった」けど「みんな大衆性を持っている」ということが新たに分かった、とも言える。

要するに誰も自分が大衆であるという自覚が無いことが大衆性を生んでいるのではないか、ということ。
それは煽るメディアの自覚とも共通する。
業界の人は誰も「私は大衆性を煽る報道をして加担しています」とは自覚していない。
むしろみんな「いやあ本当に最近のメディアは駄目なのが多いですよね〜」とさえ言う。

大衆性が強くなることは民主国家としては良く無いことだと思う。
政治や社会を動かしている民衆が大衆であったら、それはとてもとても恐ろしい、責任をとる人がいない社会となる。
日本はまさに今そこにいるかもしれない。

そんな時、一人でも「自分は大衆の一人だ」「自分はメディアに煽られている人の一人だ」と自覚することが重要なのではないか。
それを強く思った。
もちろん僕もその「大衆の一人」として。




嬉しい五円

いつもよく食べに行く、近くの中華屋一宝軒に行ったら帰りにくれたけっこう嬉しいもんです。小さな気配りのあるサービスは重要ですね。来年も良い年になりますように。さあ、年賀状の続きを頑張ろう。こりゃ寝れないな。



場所:1丁目,福岡市,日本

鐘が鳴る

今鐘の音が聞こえている
2009.12.24.19:03

西鉄グランドホテルの前にある、福岡カテドラルセンター大名町カトリック教会の鐘の音だろう。

日頃からあそこの鐘楼はなかなか良いデザインだなと思っていて、
信号待ちの時なんかはじっと眺めてしまう

こんな都市の中にいて良い鐘楼から鳴る鐘の音が聞けるのは素敵なことだ
ちゃんとクリスマスを祝っている
当たり前なことなのだが、改めてぐっと身体でクリスマスを感じた気がした。

僕の実家では、クリスマスを祝う、ということは無かった
あっても、いつもよりちょっと良い食事が出てくるぐらい
サンタ(父親)も数年に一回子どもたちに気を使って枕元に登場する、ぐらいだった気がする

そのためかまったくと言ってよいほど、僕はちまたのクリスマスの習慣が無い
嫌いとかではなくて、街のイルミネーションなどを見るとそういう時期であることは頭では分かるのだが、身体が本当に知らないのだ
例えば、手帳やカレンダーの12月24日を見てもクリスマスであることを思い出さない。
うっかり相手に気を使わずに、24日の夜にミーティングしましょう、とか言い出しかねないほどだ。

でも鐘の音を12月24日にちゃんと鳴らすことは大切だなと感じた

そしてその鐘の音が人の心に与えるわずかな影響を感じた

これからは除夜の鐘ももう少し気持ちを込めて鳴らさないといけないな

その年最初に聞く音かもれない鐘の音が誰にどういう影響を与えるか分からない