福岡市都市景観賞2010を受賞しました

この度、紺屋2023で福岡市都市景観賞2010を受賞致しました。

正直まさかの受賞でびっくりしております。

福岡市都市景観賞は今年で既にもう24回目の伝統ある賞。
これまでに様々な建築物や景観が100件以上受賞しておられます。

この賞は、市民からの推薦によって選考対象作品が選ばれ、
その後審査委員会によって受賞物件が決まります。
今年は約160件の中から8件が選ばれたそうです。

この推薦ですが、他薦以外に自薦も認められているのですが、
ありがたいことに紺屋2023は他薦でして、僕らが知らないうちに応募されていて、
一次審査を通過しましたの御知らせで知ったほどです。

正直最初は、いわゆる都市景観には貢献していないと思うのだけど・・・・・・
といった半信半疑な状態で、まあ駄目だろうと思っていたら、
なんと受賞してしまいました。

受賞理由が、
建物と人々の活動が一体化することで生まれたこの画期的な場を、新たな「景観」の概念として捉えた
ということでした。

これまで、人と物の入っていないのが最も良い状態、というのが建築写真や建築空間の常識だった中で、それに対してずっと疑問を持っていた者としては、まさに人と物があっての受賞ということは、
大変嬉しい限りです。

人があっての景観。
そう思いますので、これからもこういった受賞作品が増えることを期待したいと思います。

そして、今回の受賞は何より「人々」のおかげです。
いつも紺屋に関わって頂いている方々、利用して頂いている方々、お越し頂いている方々に、
この場をお借りして、心より御礼申し上げます。

野田 恒雄

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建設ジャーナルの写真

最近読もうと思っても読めなくなりつつある建築系雑誌。
先日久々に勇気をもって書店に行き、幾つか眺めてみた。
そしたら、びっくりした。
建設ジャーナルの内藤さんの特集記事の写真。
http://www.kj-p.co.jp/book.html
まったく解像度が誌面サイズに耐えれてないのだ。
大丈夫なのか、これで良いのか、内藤事務所、と心配になるぐらい悲惨な解像度。
せっかくの建築もまったく魅力が無くなっている。
しかも一枚や二枚ではなく、ほぼ全部。
いったいどっちが提供した写真なのか分からないが、内藤さんのコメントが良かっただけに、大変残念。
写真家が撮った写真にはクレジットが入るが、素人や所員、編集部が撮る場合も全て入れべきと思った。


from I-phone

iTunes BEATLES 映像

iTunes で BEATLESの Live at Washington Coliseum ,1964 が無料で視聴できると知って、お昼がてら見てみた。

あまりビートルズは詳しくなく、映画を見たりしたことがあるぐらいで、CDも持っていないぐらいなので、まさに興味本位のミーハー根性でしかなかった。
しかし、見てみてびっくりしたのは、その当時の熱狂ぶりだ。アメリカ初来日公演ということもあったが、嘘じゃないかと思うほどのオーディエンスの発狂さだ。狂い死にそうな人がいる。

何が当時ここまで人を動かしたのだろう。

もちろんビートルズの音楽自身や彼らのスタイルの新しさがあったのは言うまでもない。
だが、一方でその登場のタイミングと時代を考えずには要られなかった。
ジャズのバップやプレスリーによるロックなど、先人たちが伏線となった音楽の文脈もあるが、何よりその当時人々がそれを求めたという時代性、社会の状況、国や政治の状況も大きく影響している。
当たり前のことだが、改めてそれを実感させられた。

ビートルズがそれをビジネス戦略的な感覚で情報として得て行動に移したなんてことあるはずはないが、何らか時代や社会の空気を感じとったところはあったと思う。それを音楽として表現したわけで、それはまさにアーティストと言える。むしろビジネス戦略では出来ない飛躍をその感性によってなし得たとも言える。

自分が日々無意識に感じていること当たり前だと思っていること。困難ではあるが、それを知ることが重要な何かを知ることになる。

Appleの40分にもなる映像を無料配信するというビッグサービスのおかげで、色々考えさせられた。
僕のような中途半端に興味がある人には効果的な宣伝だろう。僕でも少しは欲しくなったぐらいだから。









from I-phone

はじまりとおわり

メディアは本当に「最初」が好きだと思う。

新しいお店や施設のオープン、大きな大会の開会式、新作の本や音楽、社長や市長の就任したて、事件の発生、などなど。

先日閉幕したAPECも、開幕前はあれだけ取り上げて盛り上げておいて、「これはどうなる」「ここは議論されるべきだ」などと煽っていたが、実際どうなったか、ということに関してはほんの少し触れるだけ。
閉会式がだいたい寂しい感じになる国際会議自体もそうだから仕方無い部分もあるが、あまりにあまりだと思う。

重要なのは始まりではなく、その過程と終わりなのではないだろうか。

はじまりと取り上げたなら終わりも取り上げないと、そのコト自体を取り上げたことにはならず、完結しないはず。

はじまり好きはメディアなのか視聴者なのか。

鶏と卵の関係だが、どちらかが変わらないと変わらない。

尖閣諸島の映像流出と世論の関係

尖閣諸島での漁船衝突事件の映像が流出した事件。
すっかりメディアの報道の中心は、その保安官をどうするか、といったところに移ってしまい、
もはやニュースにもならなくなってきた。
しかし、ここでこの件を止めてはならないと思う。

流出させた保安官も、映像を国民に公開せよと叫んでいた政治家も、
「世論が見たいと言っている」
を根拠にして、発言していた。

しかし、本当に果たして皆が見たいと思っていただろうか、と思うのだ。

もちろん「興味本位」で見たかった人はたくさんいるだろう。
それは、ニュースになっている有名な事件のその瞬間を見たい、という
「衝撃の瞬間!!」や「警察24時!!」的な番組を見たい気持ちと変わらないのではないか。

しかし、政治家や保安官が言っていた、「国民に見せるべき」という思いは、
「民主主義の国として国民に情報を公開し、国民が共有した上で、国全体で議論すべき」
というところにあるのではないかと思う。
政治家はどうか分からないが、保安官は少なくともそういう思いがあったのではないか。

しかし現実は、かなり無責任に街頭で応える「世論調査」というものがその根拠になっていて、
本当にその人が、国民としてそれを見た上で議論したいから見たい、と言っていたどうかは分からない。
いや、はっきり言って「国民として見ておかなければならない」「そしてそれを見たことに俺は責任をもって議論する」という気持ちで調査に応えた人はたぶんほぼ皆無で、
ただただ「見てみたい」でしか無かったのではないかと思う。

そんな、「いや、俺は別に見たいとは言っていないよ。でもみんなは見たいんじゃない?」
的な誰も責任をとらない状況で生まれた調査結果と空気が、保安官の気持ちを動かし、
映像流出へと働いたのであれば、これはかなりまずい状況だと思う。

何度も何度も繰り返し反省させられる戦争もたぶん、「いや、俺は責任をもって、戦争した方がいいとは思ってなかったんだけど、みんながさあ、」という人達がほとんどで、でもそんな人たちがつくった「世論」がなんとなく戦争賛成に動き、それをメディアが煽り、政治家と軍が勘違いして、と動いていったんじゃないかと思うことがある。

実際、煽ったメディアはもう取り上げてさえないし、ましてや映像を見た上で議論がさらに深まったとも思えない。国民も全然そんな議論していないし、むしろ、「へえ、こんな感じだったんだ」「映像見たし、気は済んだ」みたいなことになっていて、まったくもってどっかのテレビ番組の決定的瞬間を見たあとの家の中の空気と変わらない気がする。

このメディアと世論調査、なんとかならないものだろうか。

民主主義が浸透していて、個々が自分がその発言に責任をとる、という上での調査と、
なんとなく民主主義の国にいる人達がその時の気持ちで発言している調査。
これは雲泥の差であり、後者はまさに大衆調査だ。

そんな大衆による世論が、政治や外交、ましてや守秘義務にさえ影響を与えていることこそ、
大きな問題ではあり、ジャーナリズムが取り上げるべきことなのではないだろうか。
ここが変わらなければ、また戦争になったっておかしくないと思うのだ。