「ピーターブルックの魔笛」@北九州芸術劇場

先日の「走れメロス」でご一緒させてもらった演出家山田恵理香さんが、「私が大好きな演出家は蜷川幸雄とピーターブルック」と言われたのをきっかけに、今日北九州芸術劇場に「ピーターブルックの魔笛」を観劇に行ってきた。

世界の演劇界に多大なる影響を与えた巨匠演出家。しかし、残念ながら僕は今まで知らなかった。建築界以外の芸術分野の人がル・コルビュジェを知らないのと同じようなことなんだが、有名人・偉人て一体なんなんだろうと思ってしまう。そして、人の興味のあるないは本当にその人の可能性や思考範囲を決めてしまうな、とも改めて思った

さて、それでどうだっかと言えば、
やはり良かった
まあ当たり前と言えば当たり前だが、僕のような限りなく素人に近い者にとっても大いに楽しめた。

何より全てがシンプルだ
本来のスタンダードな魔笛を見ていないので少々無責任だが、通常3時間あるべきものが90分になっているだけあって、かなり削ぎ落とされていると感じた。しかも、本来メインシーンになるはずの部分ほど削られているように見えた。それは例えれば、描かれた部分が無くなり、余白だけになった絵画のようだ。余白を演出することで、観客の脳裏にはそれ以外の描かれていたところが同時に炙り出される。こんなシーン、わざわざ描かなくても想像できるでしょ?それよりも重要で豊かにしてくれるのは見えない行間でしょ?という風にも見える。そのためストーリーも台詞もシンプルになっていて、何も気をてらった箇所は無かった。
舞台美術も大変シンプル。完全に竹のみで構成されている。しかしそれらが大変豊かにそして柔軟に変化し、役者と呼応しながら様々なシーンを生み出していた。
衣装や音楽、照明も同じく全てがシンプル。それでいて、全てが抽象的で洗練されている。にも関わらず難解ではなく、むしろ分かりやすい。

いやあ、突き詰められた先、というか、行き着いた先、というか。
本当に必要な要素だけに絞られ構成されている、と言えば易いが、そこに至るまでの長く複雑な過程や試行を思うと、その凄さにただただ圧倒されるだけだ

物質の力

やはり紙の本でないと読めない
そんなことを改めて実感した

最近仕事で長めの文書を読まないといけないことがあった。長いと言っても短編小説にも満たない程度の些細なものなのだが、なぜ長いと感じたかというと、それはデータで送られてきたものだったからだ。

pdfにしてA4用紙20ページほど。原稿用紙なら40〜50枚ほどだろうか。よく考えればたかだか20ページなのだが、しかしなぜかpdfで20ページだと、重たく感じ、読もうとするのになんだか覚悟のようなものさえ要る。それは、パソコンの画面を連続しと同じ姿勢で見なければならないからか、右手で微妙にページを送らないといけないからか。理由はよく分かっていない。ただ、ともかく、その資料をすぐには読む気になれず、ちょっと敬遠する日が数日続いていた。
しかしとにかく読まねばならない
意を決して画面に向かってみたが、やはり数行で嫌になる。
仕方ないから、時間があって気が向いたときに読もうと、プリントアウトすることにした。
ところが。
プリントアウトしてちょっと読み始めると、あれよあれよという間に読めてしまったのだ。

これは明らかに機器の画面上にある文字を読むのと、紙という物質上にある文字を読むのとの違いではないかと思った。タブレットを持っていないので電子書籍専用の機器は試していないが、間違いなくiPhoneでは読めなかったし、何より紙を持っているということ自体が何か文章との距離を身近にし、読むことに対する気軽さを与えてくれたように思う。

これからますます電子書籍が普及すると思うが、結果的に逆に読書から遠のく人が増えないようにだけは願いたい。そのためにも、紙の本は役割を変えて残るだろうし、紙という物質の価値も変わるのだと感じた。

a+b=XからX=a+bへ

今までの新築または20世紀のモダニズムは、
a+b
の答えXを求めようとするものだったのではないか。
21世紀になって様々な新たな手法が登場したとはいえ、それらはXという答えの出し方が変わっただけのようにも見える。
×とか÷が出てきて、√やsinなどが計算技術の進歩で出来るようになったという感じか。

しかし、再生案件をやっていて毎回感じるのは、そういう思考では限界があると言うか、無理があるということ。
なぜならすでに再生の場合、既存が式の右項として出ているような状況だからだ。
つまり、ある方法でXが導き出されたが、残念ながらそのXには価値が無くなってしまい、新たな価値を、与えなければならない。その時単純にXを否定してaに変えようとしたり、またはXに何か新たなaを加えて変えようとするのは、どうも違和感がある。それでは結局今までの思考と同じで、結末も同じではないか。
そうではなく、ある計算式の結果であったXを、さも別の計算式の結果のように見せる、例えば、2という右項は1+1で出てたものを4÷2で導き出されたように見せる、ということが出来れば、それこそまさに「デザイン」による再生ではないかと思うのだ。

そしてその思考方法が、新築を含めたデザイン全般にも適用できるようになれば、今までのような手法とはそもそも思想が違うものが生まれないかと思うのだが。
まだまだ先は見えてはいない。
ヒントがおそらく「編集」にあることまでは分かっている。

メディアの隔たり

昨今の建築家はある程度有名な人なら延べてどこかの大学で教えていることが多い。
大半が国内の大学だが、少しだけ海外の大学で教えている人もいる。
以前たまたま訪れたシンガポールの大学で、ある建築家が教えておられることをそこで知った。失礼な言い方になるが、けして超がつくほどの有名人ではない。でも建築家の端くれならまず知っているであろうぐらいの方ではある。
しかし、そこで教えておられることは全然知らず、驚いた。正直、最近お名前を見聞きしてなかったので、ここにおられたのか、という印象だった。

しかし、つまりそういうことなのだと思った。

海外の大学に移ってしまったり、海外に事務所を移したりすると、すっかり国内のメディアに登場する機会が減り、国内の人から忘れられてしまうのだ。変わらず作品をしっかり作っていてもだ。
この関係は国内外においてだけでなく、国内の東京内外においても言えるだろう。地方に行ってしまうとメディアから消えてしまう。

これはなんだか変ではないだろうか。

おそらく取材経費がかさむなどの理由があるのだろうけど、何もわざわざ現地に行かなくても出来ることはあるはず。むしろそうした人たちをうまく使って、各地域の情報を集めたりすればいい。様々な地域に飛んだ建築家たちがそこで何を見て、感じ、作っているのか。気になる人は多いし、メディアめ得ることも多いはずだ。シンガポール通信の連載とか、今アジアが注目される中、大変面白いと思うのだが。

しかし、どうもそんなことが起きそうな気配はない。
自分にも言えるが、どうしても人間は物理的距離に思考が影響を受ける。それがおそらく原因だろう。
福岡にいれば、やはり福岡のことや人が近しく感じてよりリアルに想像できるし、関西に行けば関西が、関東に行けば関東が、そうなる。新幹線に乗って博多から京都に移動してると、本当にその思考の変化を面白いぐらい感じるから、これはたぶん間違いない。
だからいくらメディアがグローバルに考えようとしても、所詮人ならが一箇所にしか居ない限り、考えがどうしても及ばないのだろう。

情報技術が進み、どこに居ても情報が得られるようになったが、それが原因で動かなくなってしまったら、元も子もない。特にメディアはむしろより拠点をより増やす必要があるのではないだろうか。

それはメディアだけでなく、自分にも言えることだ。出来る限り自分で見聞きし、出来る限り拠点を複数持つ。そんな状況を目指したい。

情報を受け取る側として / no.d+a

事実って何なのだろう

「やらせ」メール問題や、
それを批判しているくせにそもそも世の中のことを正確に伝えてくれないマスメディアを見ていると、
「どうして正確な情報、事実を伝えてくれないのだ」と思うし、そう思っている人は多いと思う

しかし、正確な情報、事実、っていったい何なのだろうか

それが「やらせ」であることを知らなければ、そのメールはその時点ではそれを見た人にとってはそれが事実だったはずだし、何ら疑問を持たなかったのだろうと思う

例えば、ある百貨店の売上が前年比130%という記事があったとして、
それが実は実態と違ってむしろ前年比80%だということをその業界の人から聞くまでは、
130%が記事を読んだ側としては事実であり続ける
例えば、ある新聞の連載に書かれている人の生い立ちがあったとして、
それが実は実際の生い立ちとは違うということを知るまでは、
その書かれている生い立ちが読者にとっては事実となる
しかもこの場合は本人が書いているのだから、疑って読み始めたら読んでられない

じゃあどうすれば事実か事実でないかを知ることができるのか

それはもはや自分で確かめる以外に方法がないわけだが、
それははっきり言って不可能だ。
新聞やテレビの全ての情報の裏をとるなど出来るはずが無い
それに上記のように本人が間違っていた場合など、事実を知るのは至難の業で、警察ばりの捜査がいる

となると、
まあテレビと新聞の記事は半分は怪しい、
と日頃から疑ってかかっておくぐらいしかできないわけだが、

ただ、そもそも正確な情報、事実を知る必要があるのか、と言えるとも思うのだ

先日ある新聞の記事に、医学的にはその人の寿命をある程度迄測ることができる段階にきている、という内容の記事が掲載されていた。DNAのある部分の長さがその人の寿命に比例していることが分かったのだそうだ。
(ちなみに寿命を伸ばすためのDNAも発見されていて、そのDNAのスイッチをオンにするサプリメントをアメリカで販売したら、人が殺到したそうだ)

でもはたして寿命を知る必要はあるだろうか

寿命が分からないから人は日々コツコツと生きていけるのではないかと思う

例えば(これは本当に例えばの話だが)、生まれた段階でDNAを調べればその人の寿命だけでなく、特性、体質、能力、などまで分かってしまうとすると、おそらくかなりの割合の人が希望を失うと思う。ごくごくほんのわずかな特殊能力をもった人のみが希望を持てるかもしれないが、それはそれでプレッシャーだろうし、何をやってもできて当たり前に扱われ、その上結果まで見えているわけだから、取り組みがいがなくなってしまい、やはりつらい

民主主義の社会では、民主は全ての事実を知り、共有しておくべきだ、という考え方が一般的だが、
いくら自分の社会や自分に関することでも、「未来」に関することのように、自分に大きく関わる情報といえど知る必要があるとはっきり言えない事実もあると思う

もちろん人によっては知りたいと思う人も居ることだろう
そしてそれを知るかどうかの選択の権利があることが民主主義社会としては重要だと思うが、
全ての人が本当に冷静に選択の判断ができるかどうかは正直怪しいのではないかと思う
「寿命」など知りたくもないと思いながらも、気になって気になって仕方無く、結局聞いてしまう人が多いのではないか
その時、「あと〜年」ですと言われ、それが思っていたよりも全然短かった時、どうするのか

原発の情報にしても、もしも(これも本当にもしもだが)、実は世界中がもう取り返しのつかないほど汚染されているという事実があった時、それを聞いた人々は冷静に行動できるだろうか

先述の百貨店売上の話にいたっては、景気は「気」なのだから、80%の事実を聞かない方が、社会や経済にとっては良いかもしれない

要するに情報は、受け取る側の覚悟や教養もかなり求められるわけで、
それを前提に、メディアの情報を疑い、自ら確認し、受取り、理解し、責任をもって判断しなければならない
けして、発信側を追求し責めるばかりではいけないと思うのだ

そういう意味では、本当に「やらせ」があったのかどうか、本当に寿命が分かるのかどうか、確認していないのだから事実でないとも言えるし、記事を信用するなら事実とも言える

結局事実は自分の姿勢や覚悟次第で変わってしまうのだ