イカ天てイカすバンド天国だったんだ

知らんかったー 女子高生の言葉も分からんけど、昔の言葉も分からん from I-phone

伝統と革新 時代と立場

朝青龍の引退で幕を閉じた一連のどたばた

朝青龍への個人的な思いは色々あるけど、忘れないうちにその周辺から感じたことをつらつらとメモとして残しておく

まず、やはり伝統と革新は成熟した世界の大きな課題だ、と改めて実感。
時代に逆らってでも守る伝統 時代に応じて変える変革
柔道界のカラー柔道着
京都料亭のミシュランへの掲載
それぞれが重きを置いているところが、外から見れば重きを置くところではない、という
内外の価値観の隔たりが生む摩擦と葛藤
やはり内側からの迅速な判断と決断が必要

内外の価値観の隔たりが生む摩擦で言えば、
グーグルと中国 や アメリカと中東 も似ている。
要するに片方が片方に価値観を押し付けることから生まれている。
押し付けられる側は、早い段階で押し返すか受け入れるか決めねばならない

そして、時代とともに変わる外部からの認識と変わる立場の難しさ、も感じた

ただのプロレス的興行であった相撲が国技となり、
一方ではスポーツとして見られ、一方では伝統芸能として見られる
芸能なのに八百長や演出を否定され、スポーツ的公平性を重んじることを求められる。
スポーツなのに勝ち負けよりも様式を求められる
相反する二つの間で迷走する方向性 
興行とはもはや言わせてもらえない立場と責任
時代の流れに対して自らの役割を見出し変化しながらもぶれない軸が必要だ

それにしても朝青龍は好きだったから本当に残念だ

朝青龍と白鳳の対称的な横綱の組合せは絶妙だった

これで殴った事実がもし無かったら、追い込んだメディアは責任をとってくれるのだろうか








マスメディアとグローバルメディア / no.d+a

最近テレビでよくGoogleと中国の問題が取り上げられている。

先日もあるテレビ局が特集を組んでいた。

その中で、中国の有名アーティストが、自分のブログが政府を批判したために削除された、という経験者として取材を受けていた。

中国の検閲は、確かに民主主義の立場から見ればやり過ぎと感じるし、その論点の報道を日本のメディアがすることには何もおかしな点は無い様に思う。


しかし、違和感があったのは、そのアーティストが、肩書が建築デザイナーとなっていて、しかも名前を日本語の漢字の音読みになっていたこと。

音読みは確かに日本人には分かりやすいが、本人にとって実際その読み方で呼ばれることは無いはず。こちらが音読みで呼びかけても彼は振り向かないだろう。はっきり言ってそれはもはや名前では無い。

肩書にしても、もしかしたら本人がその様に望んだのかもしれないが、世界的に見ればやはり彼はアーティストなはずで、実際の認識とは食い違う。


つまり、こんな風にメディア統制している報道を本当に信用して良いのだろうか、とその点に疑問を感じたわけだ。


メディア統制しながら、中国の検閲を批判する報道。

まことに矛盾だし、しかしこれが現実でもある。


新聞やテレビなどのマスメディアは、あくまで自国にとって必要な内外の情報を、自国の利益に沿う内容に編集・解釈して、伝える。

かつてはそれで良かったし、社会からもそれが求められていた。今でもその役割が必要な局面はまだまだある。

しかし、本当の情報、事実、一つの事象への様々な見方、などグローバルな情報がメディアに求められている現代。マスメディアの状況はそれと少しズレている様に思う。


そういう意味で、そういった需要に対して応えようとしているGoogleなどが伸びているのは納得がいくわけで、そんなGoogleを一般向けに報道しているつもりの、フィルターをかけたマスメディアは、なんだか本末転倒で、滑稽にさえうつる。


もちろん全ての情報には必ずなんらかのフィルターがかかっている。しかしそのかけ方は、かける側、つまりメディアが、時代や社会に応じて柔軟に変化させなければならない。

肩書だの読み方だのに未だにフィルターをかけるメディアがGoogleを正確に伝えることなどできないのだ。


そう言えば以前僕がこの局に取材された際、建築デザイナーは分かりにくいからダメなんです、建築家でお願いします、と言われて渋々飲んだことがあった。でもこのアーティストの肩書きは建築デザイナーになっていた。


所詮そんなもんなのだ。

大人気と大人気

大人気と大人気って同じ漢字なんだ。 from I-phone

場所:広尾

そもそも:年賀状 / no.d+a

年賀状

毎年年末に追い立てられるように書いて送っている

これまでなんとか年内に投函できていたが、今年はついに元旦に投函してしまった。

 

ああ、やってしまったなあ

 

そんな気持ちでいた。

 ところがだ。

どうやらそもそも年賀状は年が明けてから書くものだったらしい。

確かによく考えたら、年も明けていないのに、

「旧年中はお世話になりました。本年もよろしく御願いします」

なんて書いて送るのはおかしな話だ。

本来なら、正月を迎えて、ちょっと時間の余裕のある三ヶ日の間に、

挨拶に行けないあの人にせめて葉書でも送って挨拶するか、

ってな感じであるべきだ。

 

今のように年内、しかも25日までに投函、なんていう習慣は、郵政省がつくったものだ。

正月休みたいのに、大量に年賀状が集まってきて日頃よりもむしろ忙しくなってしまうから、

「25日までに出してください はがき自体は10月から予約受け付けますのでお早めに~」

なんてことを言いだしたようだ。

まあ気持ちはわかる。効率化した方が届ける側は楽なのだろうし、送る側にとっても、確実に1日に届けてくれる方がありがたいし、年内に出しておけば正月が楽だ、という気持ちもある。

しかし、よくよく考えたら、そもそもの大切な習慣やそれに付随していた気持ちの部分が追いやられてしまって、本来の発端とはちょっとずれたことになっている。ほとんどの人が年内に書くことに抵抗が無いだろう。さすがに元に戻せとは言わないが、そういう原点や発端はちゃんと知っておきたいものだし、システム化された中で無意識に行っている行為がある、ということを自覚しておきたいものだ。

 

って、まあ、所詮、年内に年賀状が送れなかった人の言い訳でしかないのだけど。。。