アーバンデザイン賞2010を頂きました

この度アーバンデザイン賞2010を頂戴しました。

UDaward2010.jpg

アーバンデザイン賞とは、建築や都市計画の研究者の方々によって構成されるアーバンデザイン研究体が毎年独自に選出して贈られる賞です。
※アーバンデザイン研究体:http://www.udmovement.com/
毎年研究体構成メンバーの方から推薦があり、理事等の方々によって選考してえらばれるもので、
今回は22件の推薦の中から4件が選ばれ、そのうちの1つに選んで頂きました。

今回は、冷泉荘・紺屋2023等ビルの再生プロジェクト、として、これまでのトラベラーズプロジェクトによる活動が評価され、頂く事となりました。

この場をお借りして、これまで様々なかたちでプロジェクトに関わって下さった方々、そしていつも恊働しているTRAVEL FRONTのメンバーに、心より感謝申し上げます。

今年度僕らの他は、東京R不動産、大阪のから堀倶楽部、柏の葉アーバンデザインセンター、の方々が選ばれておられます。
※授賞式の様子:http://udmovement.exblog.jp/11915324/
またこれまでにも、槇文彦氏・隈研吾氏・妹島和世氏、そして昨年は大学時代の恩師である小泉雅生先生など、蒼々たる顔ぶれの方々が受賞しておられ、大変身の引き締まる思いです。

これからの方々の名に恥じぬ様、そして、このアーバンデザイン賞の名に恥じぬ様、
これからも精進して参りますので、今後ともご指導・ご鞭撻のほど、なにとぞよろしくお願いします。

野田 恒雄
TRAVEL FRONT(TRAVELERS PROJECT事務局) 主宰
/number of design and architecture 代表







マスメディアの真意と真価って

中国との尖閣諸島問題を各メディアがこぞって取り上げている。

流れてくるメディアの情報だけを見て聞いていれば、
「中国が無人島への領有権を100年たって急に主張してきた。
 東アジアおよび世界への玄関、そして海底にねむる石油をにらんでの、
 私利私欲的行動。日本のみならず東南アジアの国々にとっても脅威。
 アメリカも危機感を抱いている。」
といった、かなり一方的な中国批判の報道だ。
これを聞いていると、こっちも嫌でも煽られて、
「まったく中国という国はなんて国だ」
「理解に苦しむ国だ」
という気持ちになってくる。

しかし、本当に報道されている内容が正しいのかどうか。
いや、報道から受ける「印象」が正しいのかどうか。

そこがすごく重要だ。

ささやかながらでも取材を受けたことのある身の経験から言えば、
メディアというのは、かなり独自の台本に基づいた報道をする傾向がある。
既に自分の中でストーリーをつくってから現場にやってくる。
はっきり言ってドキュメント映画と変わらない。
ディレクターはあたかも監督のようにシナリオを書いて取材し編集し報道する。

例えば今回の問題も、各社ほとんど同じ様な内容で、煽るような報道だ。

全てが同じ、というのはどうにも気持ちが悪くはないか。

8割同じで2割違う なら その8割や2割には信憑性があるが、
10割同じというのは、どうにも信用がならない。
ほんとに現場に行って、しかもそもそも現場に数年間滞在して、
そこまでの国の経緯や空気感などを知った上での、その上での報道だろうか。

中国と日本を頻繁に行ったり来たりしている商社の知人がいるが、
いつも彼から聞く中国の話は、まったくメディアから感じるものとは違う。
少なくとも「よく分からない国」という印象はない。
いいも悪いもはっきりとした方向性があってビジネスも政治もしている国
といった印象で、そういう意味ではアメリカなどと変わらない。
むしろ日本の方がビジネスも政治も方向性がはっきりせず、「よく分からない国」ではないか。

マスメディアがイデオロギーを持っているのは悪いものではないし、むしろそうあってしかるべきだろう。
しかし今のマスメディアははっきりとしたイデオロギーがあるわけではない。
冷戦構造が崩壊して、主義らしい主義は無くなった。
あるとしたら視聴率主義だろうか。そして大衆煽動主義だろうか。
要するにマスメディアこそが「よく分からない」時代なのだから、
そこが報道する情報ははっきり言って「嘘半分」で聞かなければいけないわけだ。
だってどの局も同じ報道ってそれは絶対におかしいのだから。

今は僕らメディアから情報を受け取る側がある意味試されている時代と言っても過言ではない。

高い意識が必要だ。

これは、用心していてもかなり影響を受けるのだから、かなり難しいことだ。

それは中国国民だってそうだ。
おそらく中国国民や北朝鮮国民を見て、「国の言うことばっかり信じてるなんてなんて馬鹿な」
と思っている日本人は少なからずいないだろうか。
でも彼らが僕らの環境と実はさほど変わらないとしたらどうだろうか。
向こうも自国のメディアの情報を頼りにしているし、それで判断している。
そして「なんて日本は勝手な国で、全然戦争から懲りて無いじゃないか」
と思っている可能性は無いだろうか。
例えば日本で少数派が反中デモを行い、あたかも中国メディアがそれを全日本国民の総意のように
報道したら中国人はどう思うか。
もしかしたら日本のメディアが取り上げる反日デモがごく少数の人の行動なのかもしれないのだ。

結局両国ともメディアなどに大きく影響を受けて判断していて、
実際に自分が行って確かめたものでもなければ、実感からくるものでもない。
なのにこういった重要なことに限ってメディアの影響を受ける。
というかこういう次元のことはどうしてもメディアを頼らざるを得ないからはっきり言って仕方無い。

だからこそ、メディアはもっと多角的な報道をしてほしい。
そして、たいしたイデオロギーが無いなら、ただただ正確に情報を流して欲しい。
ある一部の人の意見やある一部の現象、ある発言の一部だけをを使うような、
そういった、情報に誤りはないが「勘違い」させる、報道は避けて欲しいと切に願う。

僕はまだ中国本土に行ったことはない。
だから今回の現実はよく見えていない。

でも自分が確かめるまでは、マスメディアの報道を鵜呑みにはしたくない。
あくまでも一つの側面であるとして見ておきたい。

そう肝に銘じる。



NYでのモスク騒動を見て思うこと

ニューヨークではモスク建設でもめている。 なんと反対派はイスラム教の聖典を燃やす行動をとるらしい。 自由の国アメリカはまったく見る影も無いどころか、その行為はイスラム過激派とどう違うのだろう。 宗教云々を言うつもりはまったく無い。 ただ、こういった騒動は、先に止めた方が上級な大人だと思う。先に殴るのを止め、一回自分が殴られて、それで終わりにする、そんな勇気が必要だ。そしてそれを高く評価する第三者機関や社会が必要だ。そういう時にこそ国連などの機関があるのではないだろうか。 それこそが民主主義の醍醐味なのに、民主先進国であったはずの国は機能しなくなりつつあるということか。残念でならない。 from I-phone

サラリーマンの歴史化=産業構造の形骸化

先日仕事で姫路に行く機会があり、かつての商家が立ち並ぶエリアを、そこで育った年配の方に案内してもらいながら歩いた。
かなり寂れてはいるものの、商家が立ち並ぶ通りには風情があり、そこでかつては活発な経済活動が行なわれていたことがうかがえた。
その方は、「かつては親がサラリーマンなんて家の方が珍しくて、皆家で親が商売している友達がほとんどだった」と言っておられた。

6月日経新聞の裏面「私の履歴書」ではオービックの社長の話が連載されていた。

オービックの社長に限らず、この欄で連載される方々は皆70〜80歳代の方ばかり。
皆さんの連載初回のころの話には、どうやって生きていくかを考える少年、の描写が必ずと言って良いほど出てくる。
「私は次男だったので、家業は継ぐことができない。なんとか自分で食べる方法を考えないと行けなかった」や「他の家の子供たちと同様、丁稚奉公(でっちぼうこう)に出た」と言ったたぐいの話だ。

そこには、「大企業へ就職するために就職活動に励んだ」とか「面接の際に少しでも好印象を持ってもらえるよう、リクルートの手引きを読み込んだ」、と言った描写は無い。

僕は別にここでサラリーマンを否定しようとしているわけではない。

言いたいことは、サラリーマンの歴史は浅い、ということだ。

こんなこと、年配の人にとっては当たり前の話かもしれない。
しかし、僕らの若い世代にとっては、そんなことはない。
むしろ「サラリーマン」は当たり前の様に目の前にあった、たいへん丈夫そうな既成概念だった。

そういう意味では逆に、サラリーマンに歴史が生まれ始めた、と言えるかもしれない。

皆周囲の友達のお父さんはサラリーマンだったし、
ドラマの設定もサラリーマン一家ばっかりだったし。
つまり、周囲の大人のほとんどはサラリーマンだったわけだ。
そしたら皆がサラリーマンになるという将来を考えるのは当たり前だ。
人は目の前で見たことのある道を進みたいと願うものだ。
(この点においては、家業があったから家業を継ぐ、というのも変わらない。)
だからそういう意味では、「ケーキ屋さん」とか「花屋さん」とか「スポーツ選手」とかっていうのは、まさに作文だから書く「夢」であり、鼻っから「現実にはならないもの」と思っていたのではないかと思う。
現実的には、見たことのある「サラリーマン」だったはずだ。
そしてこの「サラリーマン」という言葉には、年功序列と終身雇用、という意味も含まれ、「安定した人生」に直結する言葉だった。

しかし、今よく見てみると、そんな安定したサラリーマン生活を送れたのは、第一世代だけだったということに気づかないだろうか。
その世代はつまり今の60〜70歳代。
そして実はその初代サラリーマン組を雇い始めたのは、「家に家業があった時代に生まれ育った」世代ということにも気づく。
要するに70〜80歳代の「私の履歴書」世代なのだ。

つまり何が言いたいかというと、
この当たり前の様に言われる「サラリーマン人生」はたかだか今の60〜80歳代の人達の時代のごく短い年齢層の人限定の話、ということではないかと。

なのに今でも「サラリーマン」になるしかないと考える人達がいて、それに漏れた人達が「失業者」と呼ばれ、本人さえそれを「負け」と認識して自覚してしまっている。

サラリーマンになれるかなれないか、なんて、たいした話ではないないはずなのに。
しかもその全盛期はとうの昔に終っているのに。

かつてサラリーマンが少なかった頃に、「毎月定額の収入があるなんて、信じられない」と商家の人たちは言っていたそうだ。

よくよく考えればそりゃそうだ。
会社の収入は毎月一定ではないのに、本来なら社員に一定の給与を与えることはできないはず。
しかも丁稚奉公なんてもんではなくて、中産階級の生活が営めるぐらい出すなんて。
そういう意味でサラリーマンという立場は、もの凄くまれで、もの凄く恵まれた、立場であったはずなのだ。
まさに産業革命の功績そのものだった。

それをもう一度よく理解するべきだと僕は思う。

そして、そんなラッキーな立場に立てなかったからと言って人生が終ったわけではないし、むしろ人を雇って「サラリーマン」を増やす側に立てる可能性があるわけだし、サラリーマンでも雇い主でもない「ケーキ屋さん」や「お花屋さん」といった作文の「夢」にだってなれる可能性があるのだ。

逆に、「サラリーマン」という概念が当たり前であることがおかしな話で、
それこそが産業構造の形骸化を生んでいるのではないかと思う。

ある人が会社を立ち上げようと立ち上がる。
そこに、「では私もついていきます」、とついてくる人たちがいる。
かつての「サラリーマン」はそんな起業者と同じぐらいの勇気が必要だったのだ。
でも今そんな勇気はいらず、それどころか勇気なき人たちが大半になってしまった。
俺は安定したいから大企業に雇われたい、と。
そんな意識の低い人を欲しい企業なんで無いのに、応募してくる来る人はそんな人ばかり。
まさに商家が当たり前になって二代目がうまくいかなくなったように、二代目以降のサラリーマンもやはりうまくいかないようになるということだろう。

つまりは、歴史の形成は様式化の形成。
サラリーマンの歴史が形成されることは、その産業構造が形骸化されることと同義ということだ。

そんなことを、日経新聞の記事に「先進国の中で起業家精神を持つ人の割合が最低レベル」という記事を見て思った。


いずれにしろ。
今大勢の人が当たり前だと思っている社会。
それをちゃんともう一度理解し直すことが重要なのではないかと思う。

その時、「私の履歴書」のような記事が多いに役立ち、そこにメディアの役割の一旦があるのではないだろうか。

ちなみに僕を案内して下さったその人は
「だからみんな家に帰ると親がいて、家の家業を手伝わされたものです」
とも言っておられた。
つまり鍵っ子なんてなかったし、両親が働いていはいても、いつもすぐそばにいたのだ。

僕も商家ではないが、家業のようなものがある家だった。

だからいつでもそばに母と父がいた。

そのありがたさは何にも変えがたい。

そして僕は今サラリーマンにはなっていないのだ。
これも所詮は「負け」おしみだろうけど。


W杯 日本の大衆性 / no.d+a



終ってしまった日本のワールドカップ。
もちろんこれからまだまだサッカーファンにとっては見逃せない試合が続くし、
日本代表も早速新たな体制づくりが始まり、来年からブラジル大会アジア予選が始まる。

しかし、明らかに世間はワールドカップ終了モードに入っていて、メディアも明らかに取り上げる量が減った様に思う。新聞もさく紙面が減った。もちろん今日まで2日間の休養期間だったこともあるが、日本が勝ち残っている時は、日本以外の記事もそれなりに多かったように思う。

僕は先日の日本対パラグアイ戦はこれまで通り近くのアイリッシュパプで観戦した。
しかし、「これまで通り」とは、店が同じ、ということだけで、まったく店内の雰囲気は違うものだった。
23時キックオフという時間にも関わらず凄い数のお客さん。
みな、勝ちTなどを着たり、顔にペイントしていたり。
小さな店に2局も中継クルーが入っている。
店内の冷房がまったく効かない状況で、もはや山手線のラッシュ時かという状況。
キックオフの時間が近づくと、既にわーわーとかなり騒がしくなってきた。
パラグアイの国歌斉唱など誰も聞いておらず、あやうく君が代もスルーしそうになったので、思わず、「はい、君が代!!」と叫んでしまった。そしたら急にみんな大声で合唱。
いよいよキックオフ。
すると、ちょっとでも代表選手がミスしたりすと、「なんしよとや!あいつ!」とか、「ファウルやんけ!」とかいうヤジが飛ぶ。
しかしそれもしばらくすると、試合が硬直したものであったこともあって、思い思いに各グループで騒ぎ始め、いやコールし始めた。「にっぽん!にっぽん!」とか、ちょっとキーパーが触ると、「川島!川島!」とか。
前半が終ると一気に暑い店内を出て外でみんな休憩。
店内に残っていた人が後半開始とともに拍手すると、それで後半開始に気づいた人が店内に戻って来る。
しかし後半、そして延長戦、とますます日本の見せ場は少なくなるばかり。
そしてちょっとでも相手選手がペンルティーエリア内に近づくと、「キャー!」とか「おい!おい!」とかいうヤジがとび、ピンチが増えるもんだから、最後はそんなヤジばかりになった。
もう延長後半になると、試合そっちのけで円陣くみ始めたり、PK前には日本の国旗を掲げて歓声を上げたり。

ここまで描写してくれば分かってもらえると思うが、
要するに「サッカーを見ている人」が全然いなかった、ということが言いたい訳だ。

これは自分がまだ学生だった2002年日韓大会の時にも感じたこと。

それまでほとんど関心の無かった人が、日本代表の活躍をワイドショーなどで知り始め、いきなりサポーターが2倍にも3倍にもなる。
でもその大半の人は、日本代表のサッカーを応援したい、ワールドカップを見たい、のではなく、ゴールの瞬間や勝利の瞬間に立ち会って騒ぎたいだけ、であることが多い様に思う。
同じ23時キックオフだった初戦カメルーン戦の時の店内はいつもよりちょっと多いぐらいだったし、周囲の関心もほとんど無かった。むしろ「W杯だ!日本応援するぞ!」なんて言っていると、何言ってんだか、といった反応でさえあった。ましてやイングランド戦やコートジボアール戦などの親善試合になったら、それを見る為にいつもより早く家に帰るなんてことが「??」のまなざしだったし、その前のアジアカップ予選や他のキリンカップ戦などにいたっては、見ている人を捜すことの方が難しかった。
それがとたんに国民そうででの応援状態。

これにはいつも複雑な気持ちになる。
(ちなみにドイツ大会は代表が活躍しなかったので、こういう気持ちにはならなかった)

サポーターが増えること、応援する人が増えること、サッカーに関心を持つ人が増えること、は間違いなくいいことだ。

でもそれはいつも毎回一過性でしかない。
サッカー協会もなんとかこの熱気をJリーグに繋げようと毎回頑張るが、やはり最後にはもともとのファンの人が残る。それはメキシコオリンピックでの銅メダル獲得の頃から変わらないと思う。
これはサッカー協会の責任というよりは、そういった急増のサポーターはあくまで、「飲んで踊って騒ぎたい」だけなのだから、定着ファンにするのはかなり困難であることの方が大きな要因だ。
これが先日の北京オリンピックでのソフトボールなどであれば話は別。それまで目に触れ得る機会が無かった訳だから、それをきかっけにファンになる可能性も高かったのではないかと思う。
でもサッカーは違う。もうJリーグが出来てしばらくたつし、何より一度日韓大会で充分盛り上がっている。にも関わらずこの状況なのはもう変わり様がないと思う。

こんな風に偉そうに言う僕だって、せいぜい日韓大会で韓国を二往復したり、チャンピオンズリーグやセリアA、クラブW杯を見に行ったことがあるぐらいで、日本代表戦やJリーグ(発足前のG大阪釜元監督時代の試合を1度だけ見たが)は見たことが無いので、生粋のサポーターとは言わせてもらえないだろう。勝ちTはじめブルー系の応援グッズも一つも持っていない(代わりに毎大会オリジナルでTシャツを作っているが)。ただのサッカー好き程度だ。

だから僕がここで言いたいのはそういう人への批判ではない。
ただただ毎回そういう光景から日本の大衆性を感じてしまうということとそれへの不安感だけだ。

こうした状況に大きく加担しているのはマスメディアだ。
出国前と比べて手のひらを返した様な賞賛ぶりと取り上げぶり。
あれだけ批判しまくり、否定しまくっていたことはどこへいったのだ。
まったく無関心だったことはどこへいったのだ。
責任感のかけらも無い

岡田監督が仏頂面になってしまうのはフランス大会の時のことがかなりトラウマになっていると言う。一躍予選初突破の立役者として祭り上げたと思ったら、カズ外し、練習非公開、3戦全敗、などをへて「お前」扱いになった。
あんな受け答えになるのも無理は無い。

これは何もサッカーに限ったことではない。

一斉にメディアが「金で汚れてる」様な取り上げ方をすると、世論がそれに反応し、幹事長辞任に追い込まれる党がある。検察が二度も「白」と判定したのだから普通ならば真っ白だ。

ある番組で納豆が取り上げられると、スーパーの棚から納豆が無くなる。
そして次の日別の食物が取り上げられると今度はそれが無くなり、納豆があまる。

こうした大衆性は、実は最近むしろ「大衆性という概念さえメディアや広告が生み出した架空のもので、実際にそんな人はいないのではないか」と考えていた。
つまり、みんなが「大衆は怖いねえ」と言いながら、みんなが「俺は大衆じゃないけどな」と思っているという状況ではないかということ。存在してそうな「大衆」という蜃気楼を遠くからみんなで眺めているという構図。

でも今回のことで、「やっぱり大衆性はある」と再確認した。
いや別の言い方をすると、「やはり大衆はいなかった」けど「みんな大衆性を持っている」ということが新たに分かった、とも言える。

要するに誰も自分が大衆であるという自覚が無いことが大衆性を生んでいるのではないか、ということ。
それは煽るメディアの自覚とも共通する。
業界の人は誰も「私は大衆性を煽る報道をして加担しています」とは自覚していない。
むしろみんな「いやあ本当に最近のメディアは駄目なのが多いですよね〜」とさえ言う。

大衆性が強くなることは民主国家としては良く無いことだと思う。
政治や社会を動かしている民衆が大衆であったら、それはとてもとても恐ろしい、責任をとる人がいない社会となる。
日本はまさに今そこにいるかもしれない。

そんな時、一人でも「自分は大衆の一人だ」「自分はメディアに煽られている人の一人だ」と自覚することが重要なのではないか。
それを強く思った。
もちろん僕もその「大衆の一人」として。