さらばバスカード / no.d+a

いつの間にか西鉄バスカードの販売が終了していた 
ニモカへの完全移行も近いようだ 
ニモカは便利だ。
来春からスゴカやハカヤケンと共同利用になるらしいし、噂ではスイカとも互換性が生まれるらしいので、そうなれば、JALニモカ一枚で福岡東京の行き来は済むようになる。 
でも、バスカードはバスカードでお得だったし、絵柄も色々あって、それはそれで良かったから、ちょっぴり残念だ 
技術革新によって変わる、目に見えない変化には、なるべく注意して、自分が何を失い何を得たのか認識しておきたいところだ。

人の心理と都市環境

人の気持ちの余裕は環境に大きく左右される

当たり前のようだが、無意識に作用してくるので、自分のこととして自覚するのは難しい

大都市の人が田舎の人に比べて余裕がない

というのも頭では理解できても、自分がどの程度余裕が無いのかは認識しがたい

例えば 東京と福岡の地下鉄車内

東京ではほとんどあり得ないことだが、
福岡では、席が空いていても、立っている人がいる
これは、
「座るほどの距離でもないか」
「1〜2席しか空いていないから、誰か座りたい人に譲ろう」
というような心境からではないか。
これは日頃から、座ろうと思えば座れる程度の込み具合、だったり、
どうしても座らないといけないほど日頃から疲れてはいない
からだろうか。
つまり福岡の人は東京の人に比べて日々の生活にある程度余裕を持てているのだ。
東京の人は、日頃座れないし、疲れることが多いから、我先にと席を取り合う。
東京に住んでいる時は意識しなかったが、福岡に住みながら時々行くようになって、かなり見ていて醜いものだと思う様になった。

しかし福岡の人もある地域の人と比べれば余裕が無いはずだし、日本自体が他の国と比べるとかなり余裕が無い国と国民になっているはずだ
それに福岡の人も、福岡が大都市化すれば、おそらく東京同様、余裕の無い人のまちになっていく。

そこで生活する人はそこで生活するなりの心の持ち様になる。

逆にいえば、

心の持ち様を周囲の生活環境に逆らっててでもコントロールすることは難しい

19世紀、20世紀と、怒濤の変化を遂げ、21世紀も刻々と変化している。
環境を考慮するようになったとは言え、それでも途上国は、やはり先進国のようになりたいと、経済発展に邁進している。

経済が発展することは良いことだ。

経済が発展したからこそ享受している生活がある

しかし経済が発展したことによる弊害もある
そして、弊害がかなり具体的に分かってきた。

その弊害に、これから経済発展しようとしている国が直面することも分かっている

その時、弊害を知っていながらそれを伝えないのは、なんだかまずい気がする

都市でありながら、田舎のような心の余裕を持てる環境

資本主義と民主主義を維持しながら、文化的な豊かさや教養と良識のある人が住む社会

そんな環境はやはりただの理想に過ぎないのだろうか

模索するだけなら損は無いように思うのだが




新幹線の大人の事情02:新幹線博多駅

先日博多南駅の話を書いたが

実は博多駅もかなり大人な事情が垣間見える駅

博多駅はもちろんJR九州の管轄

でも新幹線博多駅はJR西日本の管轄

つまりどれだけ新幹線博多駅を利用されてもJR九州への直接の実入りはゼロ

これは新大阪駅も同じ

大阪駅と新大阪駅が分かれているのはおそらくこれが理由

利用者にとっては迷惑な話だが

新大阪駅はJR東海で大阪駅はJR西日本なのだ

東京から来ても博多から来ても新大阪駅で乗降する限りJR東海には大きなメリット
そもそも新大阪はおそらく新幹線の駅で一番乗降量が多いはずだ

そういう意味では、これは推測だが、新幹線のほとんどの売上はJR東海が占めているのではないだろうか

とにかくそんなことで、九州新幹線つばめと山陽新幹線は乗り入れない

だから九州外から直通で熊本や鹿児島に行くことはできない

改札口も違うから乗り換えがけっこう大変

あまり気にしていないと気にならないが、よくよく見たら大人の事情満載な博多駅

この駅もただの駅ではないのだ

キンドルについて 本の本展トークの補足 / no.d+a

先日14日に、主宰するTRAVEL FRONT運営のkonya-galleryが1周年を迎えた。
1周年記念の企画展として、hact(目黒実氏&山下麻里氏)監修による
『本の本展ー本を愛する本の物語ー』
を開催することになり、その日無事に初日を迎えた。

オープニングの企画として、目黒実氏のトークイベントを開催。
来場者には、たっぷりと2時間、円熟の氏の話を色々聞いて頂くことができた。

また28日にも開催するので、ぜひお越し頂きたい。
詳しくはkonya-galleryのHPを参照されたい。

さて、そのトークイベントの最後10分のところで、目黒氏より司会であった僕に話題がぽんっとふられた。
最近出た電子書籍キンドルについてどう思うか、というものだった。
前日にもその議論をさせてもらい、話したいことはあったが、
残りあと10分ほどしかなかったので、
とっさの判断で、お客さんからの質問の時間に充てた。

しかしその後、来場者の一人からメールを頂き、キンドルについてやりとりする機会があった。

せっかくなので、その時のメールから一部抜粋・修正して、ここでキンドルへの僕の見方を掲載しておき、当日話せなかった部分を補足しておきたいと思う。

ちなみに目黒氏の考え方は
キンドルなんて書籍とは言えない 認められない
である。
もちろん聞けば色々その意味は出てくるが、ここでは大変勝手ながらシンプルにそうまとめさせて頂いておく。

僕はキンドルについてはちょっと見解が違う。
というか、一方的にキンドル反対派が周囲に多いこともあり、あえて違う見解を述べておきたい。議論は両極あってはじめて成り立つものだ。

さて、では、
キンドルが生まれたことと、印刷技術が生まれたことと、どう違うのだろう
と投げかけたい

おそらく印刷技術が生まれた瞬間は、今と同じような気持ちで受け取られたのではないかと思うのだ。
「たしかに便利だ、しかしこれでは書生の仕事は無くなってしまうし、本を読む=手書きの字を読む 本を書く=手書きで書く という手書きを愛する文化が無くなるではないか!」という風に。
また、今回キンドルは書籍1500冊分の情報が格納されると言う。
でも印刷技術が生まれた当時も、小さな文字で印刷できるようになったことで、おそらくそれまでの1枚に入っていた文字数よりははるかに多くなったことだろうと思う。
「これでは1冊に入っている情報量が多過ぎて、一文一文の価値が下がってしまう!」
と思う人もいたはずだ。
そんなこんなで、とにかく当時の教養層はそれなりに色々議論したのではないだろうか。

でも数百年たった現在、書籍文化という文化となり、それを今の僕らは享受している。
もちろん手書きの文化が無くなって良かったとは言わないが、代わりに書籍文化というものが生まれたわけだ。

そして今、キンドルが誕生した。

もちろんキンドルには良くない箇所もあるだろう。
本という物質が持っている要素に触れることは無くなり、印刷や紙、装丁などは、習慣としても産業としても技術としても無くなっていく

しかし、僕らが感じている違和感や抵抗感は、果たして純粋に、素直に、絶対的に、客観的に、キンドルを見て感じていることだろうか。
印刷技術が生まれた時に感じた当時の人々の困惑とは違う、と言い切れるだろうか。
ただただ今まで慣れ親しんで来たものからの変化に対して感じているだけとは言えないか。

そんな風にも思うのだ。

古いものだけが文化だろうか 古いものを守ることが文化だろうか
古いものも最初は新しかったのだ 最初から古いものなど無いのだ
新しいものは文化ではないのか 新しいものを文化に昇華させていくことも大切なのではないか

色々考えは巡る。

もちろん出来れば書籍文化と共存して欲しいのが本音だ。

しかし如何なる時も、自らの感覚や価値観に固執することなく
様々な多角的視点を持って考察したいものである。

果たしてキンドルにはどのような可能性と未来があるのか

書籍の未来と可能性を考える上でも、今後注目しておきたい。









新幹線の大人の事情:博多南駅

博多南駅

昔から謎の駅で気になっていた

なぜ博多駅の次に、博多南駅があるのか

そこまで延ばす必要性があったのか

なぜ博多南駅のためだけの博多南線という路線があるのか

初めて行ってみた

要するに新幹線の格納駅だった

博多駅には格納するところが無い

他に作るしかない

探したら春日になった

だったらそこも駅にするか

そんなことで出来た駅だろう

1駅しかないけど、おそらく路線名が必ず必要で、だから博多南線

新幹線のためだけの駅 在来線は止まらない

4車両だけで、全席自由席

乗車賃も290円と、これは新幹線か、と思うほど安い

駅舎も驚くほど簡素

今まで見た新幹線の駅のホームと改札の中で一番簡素だった

その辺の在来線の駅より簡素だ

逆に駅舎は思ったよりしっかりしていて、ロータリーも大きい

これはたぶんJR西日本とは違う管轄なのではないか

だいたい新幹線の終着駅ためだけの駅ってもしかしてここだけなんではないだろうか

東北新幹線の仙台駅は在来線も止まるし、上越新幹線にしても在来線と乗り合っている

九州新幹線は、山陽新幹線とはつながらないから、この博多南駅は通らない。

大人の事情が垣間見える博多南駅

やはりただの駅ではなかった