嬉しい五円

いつもよく食べに行く、近くの中華屋一宝軒に行ったら帰りにくれたけっこう嬉しいもんです。小さな気配りのあるサービスは重要ですね。来年も良い年になりますように。さあ、年賀状の続きを頑張ろう。こりゃ寝れないな。



場所:1丁目,福岡市,日本

鐘が鳴る

今鐘の音が聞こえている
2009.12.24.19:03

西鉄グランドホテルの前にある、福岡カテドラルセンター大名町カトリック教会の鐘の音だろう。

日頃からあそこの鐘楼はなかなか良いデザインだなと思っていて、
信号待ちの時なんかはじっと眺めてしまう

こんな都市の中にいて良い鐘楼から鳴る鐘の音が聞けるのは素敵なことだ
ちゃんとクリスマスを祝っている
当たり前なことなのだが、改めてぐっと身体でクリスマスを感じた気がした。

僕の実家では、クリスマスを祝う、ということは無かった
あっても、いつもよりちょっと良い食事が出てくるぐらい
サンタ(父親)も数年に一回子どもたちに気を使って枕元に登場する、ぐらいだった気がする

そのためかまったくと言ってよいほど、僕はちまたのクリスマスの習慣が無い
嫌いとかではなくて、街のイルミネーションなどを見るとそういう時期であることは頭では分かるのだが、身体が本当に知らないのだ
例えば、手帳やカレンダーの12月24日を見てもクリスマスであることを思い出さない。
うっかり相手に気を使わずに、24日の夜にミーティングしましょう、とか言い出しかねないほどだ。

でも鐘の音を12月24日にちゃんと鳴らすことは大切だなと感じた

そしてその鐘の音が人の心に与えるわずかな影響を感じた

これからは除夜の鐘ももう少し気持ちを込めて鳴らさないといけないな

その年最初に聞く音かもれない鐘の音が誰にどういう影響を与えるか分からない




やれることはなるべく早くやった方がええよ

大正元年生まれの祖母と話していて、そう言われた。

第一線で仕事をしている人や先輩などからも良く言われるが、
あと少しで1世紀生きることになる人に言われると、その重みはまた全然違う。

まだ関東大震災も第1次世界大戦も起こっていない
まだ韓国は李氏朝鮮で、中国も清である時代
祖母は今でも、北朝鮮と韓国のことを、北鮮・南鮮とついつい呼んでしまう。
祖母にとっては北と南に分かれてからの方がまだ短いのだ

祖父と6名もの子とともに北鮮に第二次大戦前に移り、
まだ歴史上終戦でない時期に、既に生活の中で敗戦を肌で実感し、
それまで祖父の部下だった朝鮮の人々がある日から上司にとってかわり、
そこにソ連兵がやってきて占領し、また更に人間の上下関係が変わり、
ある晩に他の6家族とともに逃げ出し、
地図も何も無い中、小さな子ども6人の手を引き、必死に南鮮に向かい、
やっと着いた街ではコレラが発祥していたために米軍によって隔離されてしまっていて、
また逃げ出し、這々の体で釜山から引き揚げ船に乗り込み、
佐世保に着いたと思ったら、コレラが流行った街から来たという理由で、5日間も海上で待たされ、
本来米軍から引揚者に支給されるために提供されたはずの食料は全て船長と船員が独占し、
代わりに粟のおかゆを食べさせられ、そのために栄養失調で次々に周りの人々が飢えで倒れていく
亡くなって行く人々をそのまま船に置いておくわけにはいかないから、船上から海へと次々に遺体は放り投げられていく
やっと上陸したと思ったら、日本の主要都市は焼け野原
祖母の実家のあった住吉は川崎重工があったため、
平な場所が見当たらないほど焼夷弾の後で地面は穴しかない
そんな街の駅で停めても仕方ないからと、佐世保からの貨車は広島〜神戸間は止まってはくれず、ただただ過ぎる風景として見ているしかない
やっと停まった大阪駅
近くの親戚宅に一旦居候するも、やはり家のある大津まで帰ろうと、1ヶ月滞在しただけでまた移動する
京都、滋賀は空襲を受けなかったため、焼けておらず、周囲の家も人も無事
でもかえってそれが仇となった
空襲を受けなかった土地の人々は引揚者に冷たかった
家にはいつの間にか勝手に他人が住んでいた
自分の家なのに2階に一家で居候する生活
子どもたちが小学校へ行っても、配給品を巡って、争いが起こる
「引揚てきやがって。こっちもきついのになんで戻って来たんだ。物がますます足りなくなるじゃないか」
そんなことを小学1年生が同級生の引き揚げて来た子に言う
一方で、別の小学校では
「僕たちは要りません。先生、引き揚げて来た人たちを優先して下さい」
と言う子がいたりもする。
※これは、地元の市立小学校と滋賀大付属小学校の話で、
 そういう究極の状態の時の選択と判断、しかも子どもという純粋な段階での人の発言が、
 土壇場の教養や教育(知能や知識という意味ではなく)の重要性をあからさまにする
そんな露骨な人の性分を感じたりしながら、必死で6人を立派に育てた

やれるのについついやらないことが人はあるから、思い立ったらすぐにやった方がいいよ
とかいう平和な話ではなく
やりたくてもやれないことが人生にはある
やりたいときとやれるときは必ずしも一致しないことがある
だから、やれるのならやれることは今やらないと二度とできなくなるかもしれない

そういう意味と経験がその言葉には含まれている
もちろん祖母はそんなに、重たく、説教地味て言ったのではない
ごくごく自然にさらっとそう言った
だからこそますます重たい

僕ら経済発展後世代は本当に恵まれている  
いや、ある意味そういう経験ができない分、損をしているとも言えるかもしれない
戦後世代の苦しい時代さえ知らない 高度経済成長期のような分かり易い生き甲斐もない
そんな僕に時間の貴重さなんて分かるはずが無い

本当の時間の大切さ 一生は刹那である 

それを分からないなりにもせめて意識して過ごしたいものだ

明日は何をすべきで僕は何をしたいだろうか 




さらばバスカード / no.d+a

いつの間にか西鉄バスカードの販売が終了していた 
ニモカへの完全移行も近いようだ 
ニモカは便利だ。
来春からスゴカやハカヤケンと共同利用になるらしいし、噂ではスイカとも互換性が生まれるらしいので、そうなれば、JALニモカ一枚で福岡東京の行き来は済むようになる。 
でも、バスカードはバスカードでお得だったし、絵柄も色々あって、それはそれで良かったから、ちょっぴり残念だ 
技術革新によって変わる、目に見えない変化には、なるべく注意して、自分が何を失い何を得たのか認識しておきたいところだ。

人の心理と都市環境

人の気持ちの余裕は環境に大きく左右される

当たり前のようだが、無意識に作用してくるので、自分のこととして自覚するのは難しい

大都市の人が田舎の人に比べて余裕がない

というのも頭では理解できても、自分がどの程度余裕が無いのかは認識しがたい

例えば 東京と福岡の地下鉄車内

東京ではほとんどあり得ないことだが、
福岡では、席が空いていても、立っている人がいる
これは、
「座るほどの距離でもないか」
「1〜2席しか空いていないから、誰か座りたい人に譲ろう」
というような心境からではないか。
これは日頃から、座ろうと思えば座れる程度の込み具合、だったり、
どうしても座らないといけないほど日頃から疲れてはいない
からだろうか。
つまり福岡の人は東京の人に比べて日々の生活にある程度余裕を持てているのだ。
東京の人は、日頃座れないし、疲れることが多いから、我先にと席を取り合う。
東京に住んでいる時は意識しなかったが、福岡に住みながら時々行くようになって、かなり見ていて醜いものだと思う様になった。

しかし福岡の人もある地域の人と比べれば余裕が無いはずだし、日本自体が他の国と比べるとかなり余裕が無い国と国民になっているはずだ
それに福岡の人も、福岡が大都市化すれば、おそらく東京同様、余裕の無い人のまちになっていく。

そこで生活する人はそこで生活するなりの心の持ち様になる。

逆にいえば、

心の持ち様を周囲の生活環境に逆らっててでもコントロールすることは難しい

19世紀、20世紀と、怒濤の変化を遂げ、21世紀も刻々と変化している。
環境を考慮するようになったとは言え、それでも途上国は、やはり先進国のようになりたいと、経済発展に邁進している。

経済が発展することは良いことだ。

経済が発展したからこそ享受している生活がある

しかし経済が発展したことによる弊害もある
そして、弊害がかなり具体的に分かってきた。

その弊害に、これから経済発展しようとしている国が直面することも分かっている

その時、弊害を知っていながらそれを伝えないのは、なんだかまずい気がする

都市でありながら、田舎のような心の余裕を持てる環境

資本主義と民主主義を維持しながら、文化的な豊かさや教養と良識のある人が住む社会

そんな環境はやはりただの理想に過ぎないのだろうか

模索するだけなら損は無いように思うのだが