tweet me が what's hotに

紺屋2023の入居メンバーの1組であるIT系NPOのAIP。 その中核を担っているフライトシステムコンサルティングが製作したアプリ「tweet me」が、アップストアのおすすめ[ what's hot]の上位にここ暫く紹介されてます。 詳しくは知らないけど、近い所の人たちが作ったアプリは、なんだか無情に親近感が湧きますね。 とりあえずダウンロードしたけど、イマイチ使いこなせず。 from I-phone

人間の懐の深さ

先日硫黄島での慰霊式のニュース記事をどこかのサイトで目にした。

その記事は慰霊式自体ではなく、その慰霊式参列をきっかけにある一人の元米兵が65年ぶりに硫黄島を訪れた、ということが内容の中心であった。

まずその記事の中で驚いたのは、

なんと彼の息子が結婚を望んだ相手は、硫黄島で戦った旧日本軍パイロットが父親という女性だというのだ。

なんという巡り合わせだろうか。
戦争などまったく知らない僕でも、この運命のいたずらがとんでもないことは多少想像がつく。
お互い殺したいと思って戦った者同士が、まさか親として出会いそして親戚になることになるなど、想像していたはずもない。
国同士・政府同士は国交を回復していて、戦争時のわだかまりは過去のものとなっていても、戦地で実際に対峙しながら戦っていた人たちにとっては、その戦闘意識を持つために抱えた殺意や憎しみはそう簡単に消えるものではないはずだ。
僕らの日常生活でさえ、一度嫌いになった人との和解や、一度喧嘩してしまった人との和解は、そう簡単なものではないのだから、その数十倍も数百倍も、精神的苦悩と勇気を要するに違いない。

しかし、娘の父親であるその旧日本兵パイロットは元米兵にこう言ったという

『日本軍と戦ってP51を飛ばし、生き延びた男なら、勇敢な男に違いない。自分の孫に、その男の血が流れることを望みたい』

僕は本当に正直に心を打たれてしまった。

なんという懐の深さだろう、と。

両親とも結婚を当初反対していたというから、その旧日本兵の方も反対してのだと思う。
でも最終的にその気持ちに行き着いて、その言葉を相手に伝えた。
凄い勇気だと思った。

そして、きっと二人の間に生まれる子どもは、勇敢な二人の血が流れる素晴らしい人になるだろうと、想像がつく。

まさにその通りになっている。

この65年ぶりの彼の硫黄島来訪は、その孫の希望だったというのだ。


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伝統と革新 時代と立場

朝青龍の引退で幕を閉じた一連のどたばた

朝青龍への個人的な思いは色々あるけど、忘れないうちにその周辺から感じたことをつらつらとメモとして残しておく

まず、やはり伝統と革新は成熟した世界の大きな課題だ、と改めて実感。
時代に逆らってでも守る伝統 時代に応じて変える変革
柔道界のカラー柔道着
京都料亭のミシュランへの掲載
それぞれが重きを置いているところが、外から見れば重きを置くところではない、という
内外の価値観の隔たりが生む摩擦と葛藤
やはり内側からの迅速な判断と決断が必要

内外の価値観の隔たりが生む摩擦で言えば、
グーグルと中国 や アメリカと中東 も似ている。
要するに片方が片方に価値観を押し付けることから生まれている。
押し付けられる側は、早い段階で押し返すか受け入れるか決めねばならない

そして、時代とともに変わる外部からの認識と変わる立場の難しさ、も感じた

ただのプロレス的興行であった相撲が国技となり、
一方ではスポーツとして見られ、一方では伝統芸能として見られる
芸能なのに八百長や演出を否定され、スポーツ的公平性を重んじることを求められる。
スポーツなのに勝ち負けよりも様式を求められる
相反する二つの間で迷走する方向性 
興行とはもはや言わせてもらえない立場と責任
時代の流れに対して自らの役割を見出し変化しながらもぶれない軸が必要だ

それにしても朝青龍は好きだったから本当に残念だ

朝青龍と白鳳の対称的な横綱の組合せは絶妙だった

これで殴った事実がもし無かったら、追い込んだメディアは責任をとってくれるのだろうか








マスメディアとグローバルメディア / no.d+a

最近テレビでよくGoogleと中国の問題が取り上げられている。

先日もあるテレビ局が特集を組んでいた。

その中で、中国の有名アーティストが、自分のブログが政府を批判したために削除された、という経験者として取材を受けていた。

中国の検閲は、確かに民主主義の立場から見ればやり過ぎと感じるし、その論点の報道を日本のメディアがすることには何もおかしな点は無い様に思う。


しかし、違和感があったのは、そのアーティストが、肩書が建築デザイナーとなっていて、しかも名前を日本語の漢字の音読みになっていたこと。

音読みは確かに日本人には分かりやすいが、本人にとって実際その読み方で呼ばれることは無いはず。こちらが音読みで呼びかけても彼は振り向かないだろう。はっきり言ってそれはもはや名前では無い。

肩書にしても、もしかしたら本人がその様に望んだのかもしれないが、世界的に見ればやはり彼はアーティストなはずで、実際の認識とは食い違う。


つまり、こんな風にメディア統制している報道を本当に信用して良いのだろうか、とその点に疑問を感じたわけだ。


メディア統制しながら、中国の検閲を批判する報道。

まことに矛盾だし、しかしこれが現実でもある。


新聞やテレビなどのマスメディアは、あくまで自国にとって必要な内外の情報を、自国の利益に沿う内容に編集・解釈して、伝える。

かつてはそれで良かったし、社会からもそれが求められていた。今でもその役割が必要な局面はまだまだある。

しかし、本当の情報、事実、一つの事象への様々な見方、などグローバルな情報がメディアに求められている現代。マスメディアの状況はそれと少しズレている様に思う。


そういう意味で、そういった需要に対して応えようとしているGoogleなどが伸びているのは納得がいくわけで、そんなGoogleを一般向けに報道しているつもりの、フィルターをかけたマスメディアは、なんだか本末転倒で、滑稽にさえうつる。


もちろん全ての情報には必ずなんらかのフィルターがかかっている。しかしそのかけ方は、かける側、つまりメディアが、時代や社会に応じて柔軟に変化させなければならない。

肩書だの読み方だのに未だにフィルターをかけるメディアがGoogleを正確に伝えることなどできないのだ。


そう言えば以前僕がこの局に取材された際、建築デザイナーは分かりにくいからダメなんです、建築家でお願いします、と言われて渋々飲んだことがあった。でもこのアーティストの肩書きは建築デザイナーになっていた。


所詮そんなもんなのだ。