我が郷の駅から

年末年始の実家の手伝いとその後のちょっとゆっくりした日々も終わり、今から帰福です。 育ったまち滋賀県日野町の駅は、こんな感じです。木造駅舎 、もちろん自動改札なんてなくて、硬い切符を切ってくれます。 そんな一昔前の駅と超ローカル線に乗り、JRのローカル線、JR東海道線、新幹線、と電車の発展40年分ぐらいを一気に実体験できる、毎回なかなか飽きない旅です。


from I-phone

そもそも:年賀状 / no.d+a

年賀状

毎年年末に追い立てられるように書いて送っている

これまでなんとか年内に投函できていたが、今年はついに元旦に投函してしまった。

 

ああ、やってしまったなあ

 

そんな気持ちでいた。

 ところがだ。

どうやらそもそも年賀状は年が明けてから書くものだったらしい。

確かによく考えたら、年も明けていないのに、

「旧年中はお世話になりました。本年もよろしく御願いします」

なんて書いて送るのはおかしな話だ。

本来なら、正月を迎えて、ちょっと時間の余裕のある三ヶ日の間に、

挨拶に行けないあの人にせめて葉書でも送って挨拶するか、

ってな感じであるべきだ。

 

今のように年内、しかも25日までに投函、なんていう習慣は、郵政省がつくったものだ。

正月休みたいのに、大量に年賀状が集まってきて日頃よりもむしろ忙しくなってしまうから、

「25日までに出してください はがき自体は10月から予約受け付けますのでお早めに~」

なんてことを言いだしたようだ。

まあ気持ちはわかる。効率化した方が届ける側は楽なのだろうし、送る側にとっても、確実に1日に届けてくれる方がありがたいし、年内に出しておけば正月が楽だ、という気持ちもある。

しかし、よくよく考えたら、そもそもの大切な習慣やそれに付随していた気持ちの部分が追いやられてしまって、本来の発端とはちょっとずれたことになっている。ほとんどの人が年内に書くことに抵抗が無いだろう。さすがに元に戻せとは言わないが、そういう原点や発端はちゃんと知っておきたいものだし、システム化された中で無意識に行っている行為がある、ということを自覚しておきたいものだ。

 

って、まあ、所詮、年内に年賀状が送れなかった人の言い訳でしかないのだけど。。。

 

 

乗り換えと運行量 / no.d+a

もう携帯の「乗り換え案内」上では間にあわなかった

しかし、それは、上野で乗り換えるのに4分かかる計算だった

走ったら、一つ前の山手線に乗れた

するとルートが代わり、浜松町で一つ早く乗れるルートになった

しかし、また、浜松町での乗り換えが4分に設定されていた

浜松町でも走った

そしたら更に1本早いのに乗れた

結局計15分も短縮できた

運行量の違う側面を発見した

当たり前だが、運行量が多いということは、時間のイニシアティブがこちらにあるということ

そして、乗り換えが多いことは不便だが、それだけ時間の組み合わせをコントロールする権利がこちらにあるということでもある

運行量が人の移動に与える影響は大きいのだ

やれることはなるべく早くやった方がええよ

大正元年生まれの祖母と話していて、そう言われた。

第一線で仕事をしている人や先輩などからも良く言われるが、
あと少しで1世紀生きることになる人に言われると、その重みはまた全然違う。

まだ関東大震災も第1次世界大戦も起こっていない
まだ韓国は李氏朝鮮で、中国も清である時代
祖母は今でも、北朝鮮と韓国のことを、北鮮・南鮮とついつい呼んでしまう。
祖母にとっては北と南に分かれてからの方がまだ短いのだ

祖父と6名もの子とともに北鮮に第二次大戦前に移り、
まだ歴史上終戦でない時期に、既に生活の中で敗戦を肌で実感し、
それまで祖父の部下だった朝鮮の人々がある日から上司にとってかわり、
そこにソ連兵がやってきて占領し、また更に人間の上下関係が変わり、
ある晩に他の6家族とともに逃げ出し、
地図も何も無い中、小さな子ども6人の手を引き、必死に南鮮に向かい、
やっと着いた街ではコレラが発祥していたために米軍によって隔離されてしまっていて、
また逃げ出し、這々の体で釜山から引き揚げ船に乗り込み、
佐世保に着いたと思ったら、コレラが流行った街から来たという理由で、5日間も海上で待たされ、
本来米軍から引揚者に支給されるために提供されたはずの食料は全て船長と船員が独占し、
代わりに粟のおかゆを食べさせられ、そのために栄養失調で次々に周りの人々が飢えで倒れていく
亡くなって行く人々をそのまま船に置いておくわけにはいかないから、船上から海へと次々に遺体は放り投げられていく
やっと上陸したと思ったら、日本の主要都市は焼け野原
祖母の実家のあった住吉は川崎重工があったため、
平な場所が見当たらないほど焼夷弾の後で地面は穴しかない
そんな街の駅で停めても仕方ないからと、佐世保からの貨車は広島〜神戸間は止まってはくれず、ただただ過ぎる風景として見ているしかない
やっと停まった大阪駅
近くの親戚宅に一旦居候するも、やはり家のある大津まで帰ろうと、1ヶ月滞在しただけでまた移動する
京都、滋賀は空襲を受けなかったため、焼けておらず、周囲の家も人も無事
でもかえってそれが仇となった
空襲を受けなかった土地の人々は引揚者に冷たかった
家にはいつの間にか勝手に他人が住んでいた
自分の家なのに2階に一家で居候する生活
子どもたちが小学校へ行っても、配給品を巡って、争いが起こる
「引揚てきやがって。こっちもきついのになんで戻って来たんだ。物がますます足りなくなるじゃないか」
そんなことを小学1年生が同級生の引き揚げて来た子に言う
一方で、別の小学校では
「僕たちは要りません。先生、引き揚げて来た人たちを優先して下さい」
と言う子がいたりもする。
※これは、地元の市立小学校と滋賀大付属小学校の話で、
 そういう究極の状態の時の選択と判断、しかも子どもという純粋な段階での人の発言が、
 土壇場の教養や教育(知能や知識という意味ではなく)の重要性をあからさまにする
そんな露骨な人の性分を感じたりしながら、必死で6人を立派に育てた

やれるのについついやらないことが人はあるから、思い立ったらすぐにやった方がいいよ
とかいう平和な話ではなく
やりたくてもやれないことが人生にはある
やりたいときとやれるときは必ずしも一致しないことがある
だから、やれるのならやれることは今やらないと二度とできなくなるかもしれない

そういう意味と経験がその言葉には含まれている
もちろん祖母はそんなに、重たく、説教地味て言ったのではない
ごくごく自然にさらっとそう言った
だからこそますます重たい

僕ら経済発展後世代は本当に恵まれている  
いや、ある意味そういう経験ができない分、損をしているとも言えるかもしれない
戦後世代の苦しい時代さえ知らない 高度経済成長期のような分かり易い生き甲斐もない
そんな僕に時間の貴重さなんて分かるはずが無い

本当の時間の大切さ 一生は刹那である 

それを分からないなりにもせめて意識して過ごしたいものだ

明日は何をすべきで僕は何をしたいだろうか 




人の心理と都市環境

人の気持ちの余裕は環境に大きく左右される

当たり前のようだが、無意識に作用してくるので、自分のこととして自覚するのは難しい

大都市の人が田舎の人に比べて余裕がない

というのも頭では理解できても、自分がどの程度余裕が無いのかは認識しがたい

例えば 東京と福岡の地下鉄車内

東京ではほとんどあり得ないことだが、
福岡では、席が空いていても、立っている人がいる
これは、
「座るほどの距離でもないか」
「1〜2席しか空いていないから、誰か座りたい人に譲ろう」
というような心境からではないか。
これは日頃から、座ろうと思えば座れる程度の込み具合、だったり、
どうしても座らないといけないほど日頃から疲れてはいない
からだろうか。
つまり福岡の人は東京の人に比べて日々の生活にある程度余裕を持てているのだ。
東京の人は、日頃座れないし、疲れることが多いから、我先にと席を取り合う。
東京に住んでいる時は意識しなかったが、福岡に住みながら時々行くようになって、かなり見ていて醜いものだと思う様になった。

しかし福岡の人もある地域の人と比べれば余裕が無いはずだし、日本自体が他の国と比べるとかなり余裕が無い国と国民になっているはずだ
それに福岡の人も、福岡が大都市化すれば、おそらく東京同様、余裕の無い人のまちになっていく。

そこで生活する人はそこで生活するなりの心の持ち様になる。

逆にいえば、

心の持ち様を周囲の生活環境に逆らっててでもコントロールすることは難しい

19世紀、20世紀と、怒濤の変化を遂げ、21世紀も刻々と変化している。
環境を考慮するようになったとは言え、それでも途上国は、やはり先進国のようになりたいと、経済発展に邁進している。

経済が発展することは良いことだ。

経済が発展したからこそ享受している生活がある

しかし経済が発展したことによる弊害もある
そして、弊害がかなり具体的に分かってきた。

その弊害に、これから経済発展しようとしている国が直面することも分かっている

その時、弊害を知っていながらそれを伝えないのは、なんだかまずい気がする

都市でありながら、田舎のような心の余裕を持てる環境

資本主義と民主主義を維持しながら、文化的な豊かさや教養と良識のある人が住む社会

そんな環境はやはりただの理想に過ぎないのだろうか

模索するだけなら損は無いように思うのだが