たまに働く人の数が変わる事務所 / no.d+a

今日はなぜかうちの事務所で淺井裕介君が仕事中
こないだは友人がこっちでの知り合いの結婚式のための映像制作してたし、なんだか最近働く人の人数が変わります
不思議な事務所



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アートの力、可能性

昨日仕事で大阪で絵描きの淺井裕介くんと一緒だった。

そこで、年明けから東京都現代美術館で行なっていた彼のワークショップのあるエピソードを聞かせてもらった。

彼は、泥やマスキングテープ、白線シートなどの、日常にある素材を使って絵を描く。
ワークショップでは、マスキングテープによるワークショップを行なったそうだ。
全部で4日間の日程。最終日は震災後だったにも関わらず、全員が参加できたそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/asaiyusuke/20110326

その参加者の中に一人の中年の会社員の人がおられた。
この方はこのワークショップに参加したことで、鳥や植物をマスキングテープを使って描く術を知った。
それが思わぬ時に力を発揮した。
それは震災時。
会社に出勤中だったこの方は震災の影響で家に帰れず、会社で一晩過ごしたのだそう。
他の同僚の人たちが、慌て、不安になり、落ち着けずにいる中、
この方はもくもくとマスキングテープで鳥をつくっていたのだそうだ。
そしてそのことで「救われた」「落ち着く事ができた」のだそう。

今東北の人たちが過酷な状況に直面している中、ほとんどの日本人、そしてたくさんの世界の人が、何か自分にもできることはないだろうかと考えている。それはアート業界の人も同じだが、どうしても「アートはこういう時に無力だ」と思ってしまう人が多いそうだ。僕も、なんて建築は無力なんだ、と流されて行く建物を見てむなしくなった。きっとそんな気分なんだ。

災害による被災者の心理的変化には4つの段階があるという記事が先日新聞に載っていた
1「衝撃期(茫然自失の段階)」 目の前で起こった事が信じられず、何もできない失望感の段階
2「蜜月期(ハネムーンの段階)」被災した人同士、または周辺の人たちが、一致団結して立ち向かおうとする段階
3「幻滅期(混乱の段階)」被災者間に格差が出たり、怒りや不満が爆発し、もめ事が起きる段階
4「再建期(復興の段階)」復興にめどが立ち、将来を考える段階

今は2つめの段階だ

しかしいずれ3つめの段階がやってくる。
もしかするとこれがある意味精神的には一番きつい段階なのではないだろうか

確かに1つめと2つめの段階では、アートやデザイン、建築には貢献できる面が少ないかもしれない
災害支援面から見れば、1つめの段階は「消防」「救命」であり、2つめは「避難支援」で、なかなかこれに関わることは難しい。

でも一番きつい3つめの段階には何か役割があるかもしれない。

例えば、避難所の殺風景な壁や天井に、アーティストが絵を描く、とか。
ワークショップなどで子供に楽しい時間を提供する、とか。
小さな演奏会を開く、とか。

今日紺屋のギャラリーでは、ライブペイントが行なわれた
現在開催中の「エイブルアート展」の企画だ。
エイブルアートは障害のある人たちによるアート
本当はもっと色々意味があるが、簡単に言うとそういうアートだ。
http://konya2008-2014.travelers-project.info/konya-gallery/2011/02/life-map--draw-the-line-.html
今日は本田さんというアトリエブラヴォに所属する作家さんのライブペイントだった。
彼は13時から16時まで、ただただ無心で描いていた。

その姿は、何か見ていて力を与えられている気がした。
特に「無心」であることが姿からよく伝わって来て、無心になることの難しさ、そして大切さを思い出さされた。今の自分にも足りていない心のあるべき状態だ。
出来った絵もさることながら、その描く姿に小さな感動を覚えた。

避難所の大きな壁に、たくさんのアーティストがライブペイントをしたら、その姿と絵がどんなに人の心を救うだろう
被災者の人々がみな思い思いにマスキングテープで鳥や植物をつくったら、どんなに心が解放されるだろう

ふとそう思った。

アートの力、可能性

それは凄いのではないか。

そしてもうすぐやってくる3つめの段階でこそ、その力は発揮されるのではないか
生命と肉体の安全が確保された次は、心の救助を文化がするべきなのではないか

もちろん簡単は話ではない。所詮現場を分かっていない者の戯言に過ぎない。
でもそう本当に心から思ったのだ。

from I-phone

ジレンマから難民、そして自分の浅さまで / no.d+a

先週末は、いい意味でも悪い意味でも、いや、いい意味で色々あった週末だった。

まず土曜日。

北九州にて開催されたリノベーションシンポジウム北九州の第2部登壇者として参加した。
ありがたいことにこれまで様々なところから声をかけて頂いて延べ約30本ほどのシンポジウムや講演会に参加させて頂いて来たが、今回のは過去に類を見ないぐらい残念なシンポジウムだった。
正確には自分が登壇した第2部が残念だった。準備段階から当日の段取り・会場構成、そして進行と、仮に学生が主催してもこれほどひどくはならないだろう、というぐらい不足していたからだ。
細かく言い出すと切りがないし、そんなことを言っても始まらないので、止めておくが、
1つだけ様々な社会に通じるジレンマを感じたので、その部分を取り上げる。

第2部は全部で1時間半の予定だった。
登壇者は8名。
最後にディスカッションの時間を20〜30分ほどとるため、一人の持ち時間は10分ほど。
テーマは「地域からはじまるリノベーション」とあったが、まあ要するに各自が事例を紹介する会ということ。
各自は自分たちのやっていることを発表せよ、と言われていた

さて、色々なシンポジウムを聴講したことのある人や、自らシンポジウムを開催したことのある人、またはモデーレーターやパネリストとして参加したことのある人であれば、上記条件を見れば、だいたいどういう会になるかご想像がつくのではないかと思う。
要するに各自が持ち時間を3分でもオーバーすれば、ディスカッションの時間は完全に無くなり、ただの発表会になるのでは、ということだ。
3分なんて、話していたらあっという間だ。それも話したがりの建築の人たちだ。越えるに決まっている。
その上各登壇者の事例を見ればとても10分では足りないことも分かっているし、仮にオーバーして13分話してもほんの触り部分しか話す事ができない。
とても理念の話には踏み込めない、浅い内容になりそう、誰しもそう思うのではないだろうか。

結果はというと、残念ながら期待は裏切られなかった
登壇者によっては20分話す人もいて、当初伝えられていた1人8分の持ち時間を守ったのは、僕の師匠である青木茂氏と僕だけだった。
そのため、ディスカッションの時間が無くなったどころか、第2部自体が制限時間の1時間半を30分もオーバーしてしまった。

ジレンマはこの中で感じた

モデレーターという段取り・進行役から最初に「1人8分」と伝えられた
それを2名は守り、6名はオーバーした。
この6名は本来何らかの不利益を被るはずだが、
しかし実際は、たくさん話せたその6名が参加した利益をより得られた。
ということは、守らない方が得をする、ということになる。
守る、という選択には何の意味も無くなってしまい、どんどんオーバーした方が良くなる。

わずか1時間半、いや2時間の中の話だったが、ここには様々なジレンマが隠れている。

人が生存競争をする「生物」という視点では6名が正しい。
生物的本能に純粋に従っている。
人が共存共栄をする「人間」という視点では2名が正しい
理性的に秩序に従った。

果たしてどちらが正しいのか。
どちらも人間の側面である。
どちらが欠けてもいけない。

例えば関東のスーパーの品薄状態の問題。
買いだめする人が本当に悪いのかは分からない。
家族の為、そして自分が生き延びるため、という本能が働いているのだから。
買いだめを控える人は倫理的には正しいと思うが、
しかしもしかしたらこの人は生き残れないかもしれない。
生き残るのは前者なのだ。
それがこれまでもそしてこれからも受け継がれているDNAなのだ。

この第二部に参加して、ふとそんなことが頭をよぎった。

そして、日曜日。

紺屋ギャラリーにて開催中だった映画上映会のアフタートークを聴講。
映画は「ベンダビリリ」。トークゲストは、ミュージシャンであり、アフリカで支援活動をしている、松永誠剛氏。
その話の中で、エイズ問題から難民キャンプの話になった。
南アフリカではエイズの蔓延が止められないで困っている。
それはなぜか。
エイズになった方がより良い生活保護を受けられるからだそうだ。
食料も薬も家も、まず最初にエイズ患者に与えられる。そのためみな進んでエイズになっていくのだという。
この現象は難民キャンプでも言えるそうだ。
難民キャンプで「最下層」と位置づけられたところが最優先支援対象となる。
そのため誰も最下層グループから抜け出ようとしないのだという。

このジレンマは本当に難しい
そこには制度のジレンマがあり、理性と本能のせめぎあいがある。

難民
そこには、人として、ということと、生きる、ということが両立し得ない世界があるのかもしれない

さて、その後、その足で佐賀へと向かった
佐賀市にて開催される「石山修武氏講演会」を聴講するためだ。

学生時代から書籍を読んだり、講演会を聴いたり、そして佐賀早稲田バウハウススクールに参加したりして、多少なりとも影響を受けた人だ。しかしここ数年は書籍もほとんど読んでおらず、講演会を聴くのも10年ぶりに近いぐらい久しぶりだった。

その講演内で、「難民」という言葉が出て来た。
それは、国内難民、の話だ。
中国では再開発やダム開発で年間300万人の国内難民が生まれているのだという。
これまでまったく日本に縁のなかった問題だが、今回の震災により、それに近い立ち場の人が何十万という規模で現れる、その時他の地域がどう取り組むのかが大変重要だ、という話だった。

前日のシンポジウム第3部でも震災のことに触れられ、「仮住まいの輪」という家を失った被災者と空き家を持つ家主をつなぐ活動の紹介があった。
素晴らしい取り組みだと思うが、一方でしかし、正直なんかどこか違和感も感じていた。

それが、
「共同体をつくる」ということが全体テーマのレクチャーの中で取り上げられた時
はっとさせられるものがあった。
被災者は、当たり前だが「人」だ。
そこには、「住まいを必要としている人」という面もあるが、それ以外の面ももちろんある。
そして住まいは、仮とはいえ、最低1年は住む。
つまり、とりあえず住むところを求める人、という認識はまずいのではないか。
その周辺地域も含め、そこで最低1年間暮らすのだ。
どうその人たちが地域に加わり、経済活動に参加し、暮らしていくのか。
そこまでも見据えた取り組みが必要なのではないだろうか。

とはいえ、落ち着く家が必要なのも事実。避難所生活には限界がある。悠長な事は言ってられない。

これもまたジレンマだ。

それにしても、日曜日の雨の中行くまいか悩んだが、思い切って講演会を聴きに行って本当に良かった。正直土曜日のフラストレーションが足を向かわせるエネルギーを与えてくれた。やはり人に怒りはある程度必要かもしれない。そういう意味では土曜日のことにも感謝をしないといけない。

ここ数年建築雑誌や建築書籍、講演会、集まりごと、などから遠ざかっていた。
雑誌は読んでもぴんとこないどころか、時には不愉快な気分にさえなる。
講演会なども、フラストレーションのみ得て帰ること多々だ。
あれだけ学生時代どっぷりつかり、毎月ほとんど全ての号を読み、その他出版されるたくさんの建築家に関する新書を読んで、都内である講演会やシンポジウムはほとんど逃さず行っていたのに、我ながら信じられない。今読んでいる本も建築とは直接的には関係の無いものばかりで、全然建築系の書籍に興味がわかずに正直悩んでさえいる。本当にこんなんで建築デザイナーと名乗っていいいのかと。

建築家の講演会も長らく聴きにいっていない
しかし、今回の石山氏の講演会は、聴きに行って、不愉快になるどころか、本当に勉強になったと実感できた。何より学生時代にどれだけ自分が意味も分からず聴いていたのかを痛感した。今も相変わらず理解できていないが、でも理解できていないということだけはなんとか分かる様にはなった。凡人にはそれだけでも大きい進歩だ。

まだまだ踏み込みも覚悟も勇気も足りていない。もちろん勉強も経験も足りないが、何よりも肝心なところが足りていない。どこかであぐらをかいていた自分がいたのだ。それは何よりもマズい。

もっと励まないといけない。精進しないといけない。自分の浅さ、愚かさを知らないといけない。

そういえば、当日、石山氏に今自分がやっていることに関する資料を幾つか渡せる機会があった。
今紺屋でやっているサマースクールは、佐賀早稲田バウハウススクールに影響を受けていることは絶対に否めない。始めた頃から、いつかどこか早いうちに報告する必要があると、勝手に、思っていた。
今回幸いにもその機会を得れた。

そしてその資料に対する返答がブログを通じてあった。
3月中 http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp./www/jp/top.html
4月以降http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp./www/jp/toppast/top1103.html

ー典型的な疑似民主主義。大事な主題が欠落している。ー

まだ自分にはこの言葉の本質さえ見えない。
ただ、何もかも見抜かれてしまっていることだけは分かる。




感想『ロボットとは何か』(石黒浩 著) / no.d+a

『ロボットとは何か』(石黒浩著 講談社現代新書)を拝読

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人はなぜ生きているのか どこに向かっているのか

最近漠然と考えてしまう事がなぜか増えてきた

経済原理以外の有効な、全ての人が共有できる原理はなかなか見出せない今の時代を感じると、
だいたいそもそも人間はなぜ生きているんだろう、と自然に考えてしまうからなのかもしれない

どこからやってきて、どこへいくのか
何かの目的があるのか そもそも終わりはあるのか
しかし終わりのないものなどあるのか
なぜこれほど複雑な構造をもった生物が存在する必要があるのか

疑問はつきない

僕の足りない頭と経験では、まったく見えない

でも、この疑問は別に僕だけのものではなく、
人にとっての永遠の大きな疑問だ
もしかすると実は人間はこの疑問を抱き続けるようにしかプログラムされていないのかもしれない

しかし実際はこの疑問に正面から取り組んでいる人はそれほど多くないのではないか
答えが出ないかもしれないことに取り組むことはつらいことだし、
先の見えない難問に取り組みむことを生業にして今の社会で生活するのは簡単なことではないと思う

でもこの本の著者である石黒浩氏はそれに真っ向から取りんでおられる
そう思った

この本は、題名は「ロボットとは何か」だが、実際は「人とは何か」について書かれていると感じた

しかもロボット研究という社会的意義と需要がある分野の研究を通して取り組んでおられるので、
まさにこの永遠の疑問に取り組むことを生業とされている

その上、現実社会と切り離されていないし、一部の研究者や業界・分野の間でしか成立しない話で終っていない。
むしろ日常生活との距離をかなり近く感じる研究と実践で、色々ある経済学研究や政治学研究、または、種々の工学研究なんかより、現実的にも意義が凄く高いように感じた
いわゆる重箱の隅を突く研究とは完全に一線を画してる
いわば、本当の意味での「研究」という仕事の社会的役割を果たされているように思えた

ロボットを限りなく人間に近づけようとする過程で、
哲学・芸術・心理学・社会学と幅広い分野を横断し思考されていて、
それらを含めて工学研究されている

もちろん読者に気を遣ってそうされていると思うが、
工学的な専門用語はほとんど出て来ないで、分かり易い言葉だけで説明されているのは、
その辺のそうした他分野と連携・連動されながら研究しておられる日頃の思考も影響しているのではないかと思う

だから哲学書を読んだ後のような、なんとも言えない、ますます疑問が深まるばかりの気持ちではなく、
なぜか、疑問は全然解消されていないのに、読み終えると清々しい気分にさえなってしまった

と同時に、この人答え出してしまはるうんちゃうやろか、とさえ思えた

そして、仮に石黒さんご自身は答えにたどり着けなくても、
石黒浩さんという「人」を研究することがそのまま、人とは何か、の研究になってしまう気さえした

とにかく面白い著書と著者

ちなみに8月にある紺屋サマースクール2011の特別講師をして頂く予定
今からむちゃくちゃ楽しみだ
(だからいい風に書いているのではけしてありません)









テレワークとAIP

WBSでテレワーク(在宅勤務)の特集が組まれていた
SkypeやiChatを利用して会議などが遠隔でも出来るようになってきたからだそう
しかしそうした技術を先駆けて使ってきたIT業界の流れはちょっと違う
紺屋2023に入居するAIPは、それまで在宅で仕事してきたフリーランスの人たちがわざわざやってきて仕事している
なんだか不思議な感じだ

from I-phone