マスメディアとグローバルメディア / no.d+a

最近テレビでよくGoogleと中国の問題が取り上げられている。

先日もあるテレビ局が特集を組んでいた。

その中で、中国の有名アーティストが、自分のブログが政府を批判したために削除された、という経験者として取材を受けていた。

中国の検閲は、確かに民主主義の立場から見ればやり過ぎと感じるし、その論点の報道を日本のメディアがすることには何もおかしな点は無い様に思う。


しかし、違和感があったのは、そのアーティストが、肩書が建築デザイナーとなっていて、しかも名前を日本語の漢字の音読みになっていたこと。

音読みは確かに日本人には分かりやすいが、本人にとって実際その読み方で呼ばれることは無いはず。こちらが音読みで呼びかけても彼は振り向かないだろう。はっきり言ってそれはもはや名前では無い。

肩書にしても、もしかしたら本人がその様に望んだのかもしれないが、世界的に見ればやはり彼はアーティストなはずで、実際の認識とは食い違う。


つまり、こんな風にメディア統制している報道を本当に信用して良いのだろうか、とその点に疑問を感じたわけだ。


メディア統制しながら、中国の検閲を批判する報道。

まことに矛盾だし、しかしこれが現実でもある。


新聞やテレビなどのマスメディアは、あくまで自国にとって必要な内外の情報を、自国の利益に沿う内容に編集・解釈して、伝える。

かつてはそれで良かったし、社会からもそれが求められていた。今でもその役割が必要な局面はまだまだある。

しかし、本当の情報、事実、一つの事象への様々な見方、などグローバルな情報がメディアに求められている現代。マスメディアの状況はそれと少しズレている様に思う。


そういう意味で、そういった需要に対して応えようとしているGoogleなどが伸びているのは納得がいくわけで、そんなGoogleを一般向けに報道しているつもりの、フィルターをかけたマスメディアは、なんだか本末転倒で、滑稽にさえうつる。


もちろん全ての情報には必ずなんらかのフィルターがかかっている。しかしそのかけ方は、かける側、つまりメディアが、時代や社会に応じて柔軟に変化させなければならない。

肩書だの読み方だのに未だにフィルターをかけるメディアがGoogleを正確に伝えることなどできないのだ。


そう言えば以前僕がこの局に取材された際、建築デザイナーは分かりにくいからダメなんです、建築家でお願いします、と言われて渋々飲んだことがあった。でもこのアーティストの肩書きは建築デザイナーになっていた。


所詮そんなもんなのだ。

荻窪▶北柏▶広尾▶羽田空港

今回の東京出張は今日で終わり。 北柏の祖母の見舞いや、広尾の解体前フランス大使館の建物及び開催中のアート展「NO MANS LAND」が少しだけど見れて、良かった。


from I-phone

場所:品川

段階と先

ものごとには段階がある その段階が用意されていない場合は、作らなければならない 布石を打つ 経緯を読む 逆に言えば、以前は許されていたことが、段階を進むと許されなくなる そこが難しいし、醍醐味でもある

社会の階層

ネイティブアメリカンのアーティストに会う機会があった

多民族国家をうたいながらもけして平等ではない国

誰が最初に住んでいたか などという問いは不毛だろうが

今置かれている社会構造を把握し、動くことは重要だと思った

社会構造をアートに落とし込み、対比的に見せる展示

しかしその展示自体が既に構造の一部であるということ

社会構造の階層は複雑だ

トリエンナーレ

昨日、現在来福中で紺屋滞在中の絵描き淺井裕介くんと、福岡アジア美術トリエンナーレに行った

そして思った

トリエンナーレってなんだろう

今日本全国トリエンナーレブームだ

福岡でも福岡アジア美術トリエンナーレが開催中

トリエンナーレという言葉に対するイメージがだいぶ変わって来ている

トリエンナーレというと、地元密着 大規模 アートイベント と言ったイメージが強い

でも別にトリエンナーレはそうじゃないといけないわけではないはず

アジア美術館でのアジトリの展示内容は凄く良かった 見応えがあった

でもトリエンナーレという言葉から受けるイメージのせいで、損していると思った

言葉が持つイメージというのは怖い

しかも大衆化・一般化されてからのイメージは、本来の意味とは別の意味になっていて、
使用に気をつけなければならない

だからこれまで一度も僕はリノベーションという言葉を使って来なかった。

リノベーションという言葉にもたれているイメージはもはや価値が無いものになっている

使えば使うほど損をする

メディアや広告業界が好んで使っている言葉には注意した方がいい