海外美術館展で見つけた不思議

先日福岡市美術館で開催中のシアトル美術館展を見て来た。 シアトル美術館が所蔵している日本画や中国美術を公開している。それはつまり逆輸入的な展覧会で、普段見る日本の美術館による所蔵作品展とは一味違った。コレクションした人の意図や感性に応じた展示になっているので、見せる順番や配置などの表現方法が少し違うように感じたし、説明文章もやはり少し違い、面白かった。 ただ、そんな中、不思議というか、かなり可笑しな点に気がついた。それは、キャプションの英語表記。かなり日本語の作品名とギャップがあるのだ。というかもはや作品名から文化性が抜け落ちている。例えば「山水画」に至っては、「landscape」とあって、まったく山水という雰囲気が無くなっている。日本の美術館が所蔵しているならまだいいが、海外の美術館が所蔵しているということは、要するにこの作品名で日頃展示されているということ。これではせっかくの作品も魅了半減だ。なんとかならないものだろうか。 from I-phone

W杯 サポーターの文化成熟度

「日本サポーター交流は続く 南アの子へ支援のパス ボール贈る いつか代表に」(日経新聞7/3夕刊) ある日本人サポーターに関する記事。 なんと、開催前に国内でチャリティー目的でTシャツを販売し、その後出場全32カ国を巡りながら、各国の子どもたちにチャリティーの売上からサッカーボールを贈っているのだという。 そんな素晴らしいサポーターが日本からも出てきたのだと思うとちょっと感動した。 審判が重要な一戦を任されたり、サポーターが現地の子どもを支援したり。 16強に進んだ代表をはじめとする選手の向上はさることながら、そうした周辺も成熟してきた。しかも文化が成熟し始めている。 やはり物事は積み重ねが大事だ。 from I-phone

感性から感、そして勘へ / no.d+a

マラドーナ監督擁するアルゼンチンの快進撃は残念ながら終わってしまった。
はっきり言ってそこには戦略も戦術も無かった。
あるのは彼が持っている「勘」のみ。
このままアルゼンチンが優勝したら、名だたる各国の代表監督の知略を「勘」が打ち破ったということになり、一大ニュースとなっただろう。

しかし、この「勘」
どちらかというと馬鹿にした様なニュアンスがある言葉だが、実はこれがかなり重要だと僕はつねづね思っている。

勘とはいったい何なのか
ぱっと思い当たるのは、限りなく動物の本能に近い能力なのでは、ということ。 毎日原始的で同じ行動をとり、そこから得れる経験値によって、動物的「勘」は養われているという。 
その判断力と迅速さたるや、人間はとうていかなわない。 地震予報装置が作動する前に、動物は避難している。 

 では、この「勘」の領域に人が行き着くためにはどうすれば良いか。
それは、天性であるところが大きい気がするが、それに加えて尋常ではない量の反復行動も重要ではないか、ということが考えられる。

ここで一度「勘」を体得してそうな「勘保持者」を想像してみる。
先にあげたマラドーナのほか、日本で言えば野球界の長嶋茂雄、あとは自分に近い建築業界でいけば安藤忠雄、その辺りがイメージされる。
すると、この「勘保持者」たちに共通していることに、失礼な言い方だが、「子どもっぽい」ということがあることが思い浮かぶ。
みな、まるで子どもがそのまま大人になったような人たちだ。
これはつまり動物性を残していると言えるのではないだろうか。

そして、もう一つこの「勘保持者」たちにに共通していることは、反復学習や反復練習などの、同じ行動を何度も繰り返して自らを鍛える能力に富んでいるということだ。
マラドーナは、夜ボールが見えなくなってもとことん練習をしていたという。しかもそれは、気がついたら夜だった、というから、凄まじい集中力だ。

ここで、「勘」を「感」として考えてみる。
そして「感」の対極を考えてみる。 
先天的な「感」の対極にあると思われるのが後天的な「理」 
「理」は「理性」と対応し、「感」は「感性」と対応する。 
人間は成長するに従って「理」が芽生え、「感」が後退していく。 
「理性」によって物事を考えようとするようになり、「感性」によって認識することを止めていってしまう。
ということは、「理性」がどうやら「感」の邪魔をしていそうだ。
先述の動物のことなど考えると、おそらく「勘」は「感」に「経験」が加わって生成されると思われる。
だとすると、なんとかその「感」が失われずに少しでも維持されていれば、そこに様々な経験が加わり、「勘」をすることができるのではないだろうか。

つまり考えるよりも行動することが先に立つことが重要ということだ。
それは思えばまさに子どもの行動原理そのものだ。
そしてその時、だから「勘保持者」たちは子どもっぽいのだ、ということに気がつく。
しかもその行動力と行動量は尋常ではないのだから、養われて行く「勘」は人知を超えている。 
言葉悪く聞こえるかもしれないが、彼ら「勘保持者」からからは、「理論」の「理」の字も見えて来ない。 
しかし、その凡人から見たら突拍子も無い判断が的中することはままあり、しかもそれは大きな衝撃を与えるような影響力を持つ。 
 それはまさに「勘」の成せる技なのである。 その膨大な量の練習によって積み重ねられた「経験」ともともと持っている「感性」によって生まれた、ハイブリッドで質の高い「勘」によるものなのだ。 

 数年前にスピルバークの映画に『マイノリティリポート』というのがあった
これは僕にとっては、大雑把に言えば、理VS勘(感)、の映画である。
「理」が生んだ高性能な技術を操る人間がひとたびそこから狙われる立場に立つと、頼りにするのは占い師やテレパシーなどの「勘(感)」。そして最後に主人公は見事切り抜ける。
つまり、常に示唆的なスピルバークを深読みすれば、所詮最後は「勘」には勝てないよ、ということなのではないかと考えてしまう。

そして今、あと少しでサッカー界において「勘」が「理」を打ち破ろうとした
そういう視点からもアルゼンチンの動向には注目していただけに残念だ

ちなみに「勘」の重要性を「感じ」ながら、こうやって「理」屈っぽく「考えて」いる段階で、僕には「勘保持者」になる可能性は限りなく薄いこと痛感させられる。

W杯 日本の大衆性 / no.d+a



終ってしまった日本のワールドカップ。
もちろんこれからまだまだサッカーファンにとっては見逃せない試合が続くし、
日本代表も早速新たな体制づくりが始まり、来年からブラジル大会アジア予選が始まる。

しかし、明らかに世間はワールドカップ終了モードに入っていて、メディアも明らかに取り上げる量が減った様に思う。新聞もさく紙面が減った。もちろん今日まで2日間の休養期間だったこともあるが、日本が勝ち残っている時は、日本以外の記事もそれなりに多かったように思う。

僕は先日の日本対パラグアイ戦はこれまで通り近くのアイリッシュパプで観戦した。
しかし、「これまで通り」とは、店が同じ、ということだけで、まったく店内の雰囲気は違うものだった。
23時キックオフという時間にも関わらず凄い数のお客さん。
みな、勝ちTなどを着たり、顔にペイントしていたり。
小さな店に2局も中継クルーが入っている。
店内の冷房がまったく効かない状況で、もはや山手線のラッシュ時かという状況。
キックオフの時間が近づくと、既にわーわーとかなり騒がしくなってきた。
パラグアイの国歌斉唱など誰も聞いておらず、あやうく君が代もスルーしそうになったので、思わず、「はい、君が代!!」と叫んでしまった。そしたら急にみんな大声で合唱。
いよいよキックオフ。
すると、ちょっとでも代表選手がミスしたりすと、「なんしよとや!あいつ!」とか、「ファウルやんけ!」とかいうヤジが飛ぶ。
しかしそれもしばらくすると、試合が硬直したものであったこともあって、思い思いに各グループで騒ぎ始め、いやコールし始めた。「にっぽん!にっぽん!」とか、ちょっとキーパーが触ると、「川島!川島!」とか。
前半が終ると一気に暑い店内を出て外でみんな休憩。
店内に残っていた人が後半開始とともに拍手すると、それで後半開始に気づいた人が店内に戻って来る。
しかし後半、そして延長戦、とますます日本の見せ場は少なくなるばかり。
そしてちょっとでも相手選手がペンルティーエリア内に近づくと、「キャー!」とか「おい!おい!」とかいうヤジがとび、ピンチが増えるもんだから、最後はそんなヤジばかりになった。
もう延長後半になると、試合そっちのけで円陣くみ始めたり、PK前には日本の国旗を掲げて歓声を上げたり。

ここまで描写してくれば分かってもらえると思うが、
要するに「サッカーを見ている人」が全然いなかった、ということが言いたい訳だ。

これは自分がまだ学生だった2002年日韓大会の時にも感じたこと。

それまでほとんど関心の無かった人が、日本代表の活躍をワイドショーなどで知り始め、いきなりサポーターが2倍にも3倍にもなる。
でもその大半の人は、日本代表のサッカーを応援したい、ワールドカップを見たい、のではなく、ゴールの瞬間や勝利の瞬間に立ち会って騒ぎたいだけ、であることが多い様に思う。
同じ23時キックオフだった初戦カメルーン戦の時の店内はいつもよりちょっと多いぐらいだったし、周囲の関心もほとんど無かった。むしろ「W杯だ!日本応援するぞ!」なんて言っていると、何言ってんだか、といった反応でさえあった。ましてやイングランド戦やコートジボアール戦などの親善試合になったら、それを見る為にいつもより早く家に帰るなんてことが「??」のまなざしだったし、その前のアジアカップ予選や他のキリンカップ戦などにいたっては、見ている人を捜すことの方が難しかった。
それがとたんに国民そうででの応援状態。

これにはいつも複雑な気持ちになる。
(ちなみにドイツ大会は代表が活躍しなかったので、こういう気持ちにはならなかった)

サポーターが増えること、応援する人が増えること、サッカーに関心を持つ人が増えること、は間違いなくいいことだ。

でもそれはいつも毎回一過性でしかない。
サッカー協会もなんとかこの熱気をJリーグに繋げようと毎回頑張るが、やはり最後にはもともとのファンの人が残る。それはメキシコオリンピックでの銅メダル獲得の頃から変わらないと思う。
これはサッカー協会の責任というよりは、そういった急増のサポーターはあくまで、「飲んで踊って騒ぎたい」だけなのだから、定着ファンにするのはかなり困難であることの方が大きな要因だ。
これが先日の北京オリンピックでのソフトボールなどであれば話は別。それまで目に触れ得る機会が無かった訳だから、それをきかっけにファンになる可能性も高かったのではないかと思う。
でもサッカーは違う。もうJリーグが出来てしばらくたつし、何より一度日韓大会で充分盛り上がっている。にも関わらずこの状況なのはもう変わり様がないと思う。

こんな風に偉そうに言う僕だって、せいぜい日韓大会で韓国を二往復したり、チャンピオンズリーグやセリアA、クラブW杯を見に行ったことがあるぐらいで、日本代表戦やJリーグ(発足前のG大阪釜元監督時代の試合を1度だけ見たが)は見たことが無いので、生粋のサポーターとは言わせてもらえないだろう。勝ちTはじめブルー系の応援グッズも一つも持っていない(代わりに毎大会オリジナルでTシャツを作っているが)。ただのサッカー好き程度だ。

だから僕がここで言いたいのはそういう人への批判ではない。
ただただ毎回そういう光景から日本の大衆性を感じてしまうということとそれへの不安感だけだ。

こうした状況に大きく加担しているのはマスメディアだ。
出国前と比べて手のひらを返した様な賞賛ぶりと取り上げぶり。
あれだけ批判しまくり、否定しまくっていたことはどこへいったのだ。
まったく無関心だったことはどこへいったのだ。
責任感のかけらも無い

岡田監督が仏頂面になってしまうのはフランス大会の時のことがかなりトラウマになっていると言う。一躍予選初突破の立役者として祭り上げたと思ったら、カズ外し、練習非公開、3戦全敗、などをへて「お前」扱いになった。
あんな受け答えになるのも無理は無い。

これは何もサッカーに限ったことではない。

一斉にメディアが「金で汚れてる」様な取り上げ方をすると、世論がそれに反応し、幹事長辞任に追い込まれる党がある。検察が二度も「白」と判定したのだから普通ならば真っ白だ。

ある番組で納豆が取り上げられると、スーパーの棚から納豆が無くなる。
そして次の日別の食物が取り上げられると今度はそれが無くなり、納豆があまる。

こうした大衆性は、実は最近むしろ「大衆性という概念さえメディアや広告が生み出した架空のもので、実際にそんな人はいないのではないか」と考えていた。
つまり、みんなが「大衆は怖いねえ」と言いながら、みんなが「俺は大衆じゃないけどな」と思っているという状況ではないかということ。存在してそうな「大衆」という蜃気楼を遠くからみんなで眺めているという構図。

でも今回のことで、「やっぱり大衆性はある」と再確認した。
いや別の言い方をすると、「やはり大衆はいなかった」けど「みんな大衆性を持っている」ということが新たに分かった、とも言える。

要するに誰も自分が大衆であるという自覚が無いことが大衆性を生んでいるのではないか、ということ。
それは煽るメディアの自覚とも共通する。
業界の人は誰も「私は大衆性を煽る報道をして加担しています」とは自覚していない。
むしろみんな「いやあ本当に最近のメディアは駄目なのが多いですよね〜」とさえ言う。

大衆性が強くなることは民主国家としては良く無いことだと思う。
政治や社会を動かしている民衆が大衆であったら、それはとてもとても恐ろしい、責任をとる人がいない社会となる。
日本はまさに今そこにいるかもしれない。

そんな時、一人でも「自分は大衆の一人だ」「自分はメディアに煽られている人の一人だ」と自覚することが重要なのではないか。
それを強く思った。
もちろん僕もその「大衆の一人」として。




W杯 理論と勘 / no.d+a

昨日またもアルゼンチンが快勝した。凄い。もはや神懸かっている雰囲気だ。堅守速攻のメキシコに3-1とは。 理論も戦術も無いと言われるマラドーナ監督だか、たぶんはそれは間違いない。はっきり言って勘だ。しかしその勘が的中している。そしてあのカリスマとチームのまとまり。長嶋茂雄を思い出さない方がおかしい。優勝したらまさにメイクミラクルだ。そして同時に、世界の智将たちとその戦略論を打ち壊す。 やはり最後は理論より勘が上か。 from I-phone