先入観と事実:時間の不思議

今読んでいる本の中に、本の主題からは外れるが、大変面白い話があった。 それは、「余る」時間の話。 家の中と外で、どちらが時間が余っているか、と言われれば、僕なら、家、と答えてしまう。 しかし、よくよく考えてみると、家の中にある時間は、余った時間ではなく自分でコントロールできる時間なのだ。そのため、家にいて時間が「余る」ということはないわけだ。 しかし、外の時間はコントロールできない。いくら忙しく働いていても移動していても、何かの待ち時間など、余ってしまう時間は必ずある。 不思議な話だか、時間が余っているのは外なのだ。 そう思うと、なんだか外での時間への印象が変わってくるから不思議だ。 電車の中で携帯を触る人が多いのはまさに時間が余っているから。 そしてこの記事もまさに電車の中で書いている。 余る時間と余裕 似ている様だが全然違う つまりイニシアチブが無い時間とある時間 この「余る」時間を、コントロールできる「余裕ある」時間にできる様になると、色々変わってきそうだ。 from I-phone

人は進歩しているか

技術が進む 歴史が進む

「進む」と言っているが、時間以外に本当に進んでいると言えるものはあるか

新しい:古い はあっても 進んでいる:遅れている はあるか

過去の人より今の人が優れているとは限らない 劣っているとも限らない

人が進化しているという保証はどこにも無い 進化していないという保証もどこにも無い

第3者は重要なんだ

第3者は重要なんだと最近よく実感する

例えば

「ごめんなさいを言うことは大切だ」と思っているAがいる

AはBからひどいことをされた

でもBはごめんさないと言わなかった

だからAはBに「ごめんなさいと言うべきだ」と言った

でも本当は、

ごめんなさいと言うことは大切であっても

ごめんなさいと言わせることはけして大切ではない

ー 人にごめんさないを言うけれど、人がごめんなさいを言わなくても許す ー

これが理想なはず

そして人がみなこういう意識になれば、自然とごめんなさいと言い合うようになる

でもそんなことはなかなか難しい

だから第3者が重要になってくる

なぜならこういうシチュエーションではAは当事者だから客観的に立つことができないから
Bに「ごめんなさいと言うべきだ」と言うべきでないからだ
言えばおそらくますます関係が悪化する

だから第3者が言う

「Bよ こういう時はAに謝るものなのだ」


これは第3者しか絶対に言えない

だから第3者はすごく重要なんだと実感する


ふたしかなこと

ふたしかなことはどうも気持ちが悪い

でもだからといってそれが悪いものであるというわけではない

ふたしかなことを受け入れられない自分が気持ちが悪いだけ

ふたしかなことを感覚的にでも受け入れれるようになることは重要かもしれない

まずはふたしかなことがあるということを認識するところから

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