キンドルについて 本の本展トークの補足 / no.d+a

先日14日に、主宰するTRAVEL FRONT運営のkonya-galleryが1周年を迎えた。
1周年記念の企画展として、hact(目黒実氏&山下麻里氏)監修による
『本の本展ー本を愛する本の物語ー』
を開催することになり、その日無事に初日を迎えた。

オープニングの企画として、目黒実氏のトークイベントを開催。
来場者には、たっぷりと2時間、円熟の氏の話を色々聞いて頂くことができた。

また28日にも開催するので、ぜひお越し頂きたい。
詳しくはkonya-galleryのHPを参照されたい。

さて、そのトークイベントの最後10分のところで、目黒氏より司会であった僕に話題がぽんっとふられた。
最近出た電子書籍キンドルについてどう思うか、というものだった。
前日にもその議論をさせてもらい、話したいことはあったが、
残りあと10分ほどしかなかったので、
とっさの判断で、お客さんからの質問の時間に充てた。

しかしその後、来場者の一人からメールを頂き、キンドルについてやりとりする機会があった。

せっかくなので、その時のメールから一部抜粋・修正して、ここでキンドルへの僕の見方を掲載しておき、当日話せなかった部分を補足しておきたいと思う。

ちなみに目黒氏の考え方は
キンドルなんて書籍とは言えない 認められない
である。
もちろん聞けば色々その意味は出てくるが、ここでは大変勝手ながらシンプルにそうまとめさせて頂いておく。

僕はキンドルについてはちょっと見解が違う。
というか、一方的にキンドル反対派が周囲に多いこともあり、あえて違う見解を述べておきたい。議論は両極あってはじめて成り立つものだ。

さて、では、
キンドルが生まれたことと、印刷技術が生まれたことと、どう違うのだろう
と投げかけたい

おそらく印刷技術が生まれた瞬間は、今と同じような気持ちで受け取られたのではないかと思うのだ。
「たしかに便利だ、しかしこれでは書生の仕事は無くなってしまうし、本を読む=手書きの字を読む 本を書く=手書きで書く という手書きを愛する文化が無くなるではないか!」という風に。
また、今回キンドルは書籍1500冊分の情報が格納されると言う。
でも印刷技術が生まれた当時も、小さな文字で印刷できるようになったことで、おそらくそれまでの1枚に入っていた文字数よりははるかに多くなったことだろうと思う。
「これでは1冊に入っている情報量が多過ぎて、一文一文の価値が下がってしまう!」
と思う人もいたはずだ。
そんなこんなで、とにかく当時の教養層はそれなりに色々議論したのではないだろうか。

でも数百年たった現在、書籍文化という文化となり、それを今の僕らは享受している。
もちろん手書きの文化が無くなって良かったとは言わないが、代わりに書籍文化というものが生まれたわけだ。

そして今、キンドルが誕生した。

もちろんキンドルには良くない箇所もあるだろう。
本という物質が持っている要素に触れることは無くなり、印刷や紙、装丁などは、習慣としても産業としても技術としても無くなっていく

しかし、僕らが感じている違和感や抵抗感は、果たして純粋に、素直に、絶対的に、客観的に、キンドルを見て感じていることだろうか。
印刷技術が生まれた時に感じた当時の人々の困惑とは違う、と言い切れるだろうか。
ただただ今まで慣れ親しんで来たものからの変化に対して感じているだけとは言えないか。

そんな風にも思うのだ。

古いものだけが文化だろうか 古いものを守ることが文化だろうか
古いものも最初は新しかったのだ 最初から古いものなど無いのだ
新しいものは文化ではないのか 新しいものを文化に昇華させていくことも大切なのではないか

色々考えは巡る。

もちろん出来れば書籍文化と共存して欲しいのが本音だ。

しかし如何なる時も、自らの感覚や価値観に固執することなく
様々な多角的視点を持って考察したいものである。

果たしてキンドルにはどのような可能性と未来があるのか

書籍の未来と可能性を考える上でも、今後注目しておきたい。









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紺屋2023のサイトプロジェクトに関わっておきながら、
やっと最近頑張ってちょこちょこ更新してます。